100号 2008.4月発行 問1.千保川に架かる鳳鳴橋の鳳凰像、雄はどちらか 1.左(上流側) 2.右(下流側) ヒント:36号 答え:末尾 |
―――――――金屋なでしこ検定―――――――
※「たたら」100号記念※
あなたの<金屋なでしこ度>はどれくらいですか
問2.金屋町の歴史から・・・・・・
1911年前田利長が、高岡に城下町を築くにあたり、西部金屋(現高岡市戸出)から、鋳物発祥の地である河内国丹南の流れをくむ鋳物師を招いて、仕事をさせたのが金屋町である。前田利長について正しいのはどれか? 1.加賀藩二代藩主 2・富山藩初代藩主 ヒント:93号 参考:86・43・38・27・18・3・1号
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国宝瑞龍寺(前田利長の菩提寺):参考86号 |
問3.鋳物産業について・・・・・・
最初は鍋、釜、鉄瓶等の日用品や、鋤、鍬等の農耕具を作っていた。江戸中期頃には釣鐘や灯籠など作るようになり、江戸末期頃から仏具、花瓶など装飾、鑑賞性の高い製品を作り、海外にも輸出された。
その昔、大量の鉄を溶かすために使われていた送風装置の名称は何?
1.大ふいご 2.たたら ヒント:1号 参考:75、71、58,57,51,48,47、44、40、29、74号
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鋳物資料館(金屋の鋳物の歴史):参考89号 |
問4.御印祭について・・・・・・
利長の遺徳を偲んで鋳物師らが命日に御参りしていたことから始まるといわれている。前夜祭で踊る弥栄節は、つらい鋳物の仕事の中で生まれた。戦後、先人の心を次代へ伝えるため踊るようになった。その唄の掛け声は?
1.ソリャソリャソーリャ 2.エンヤシャヤッシャイ ヒント:54号 参考:90、78、66、42、30、19、7号
保存会参考:84、70、59、31、11、9号
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子供による奉納踊り 保存会のこと:70号 |
問5.千保川・・・・・・・
江戸時代から近年まで千保川の船運は高岡の発展を支えてきた。戦後の高度成長時代に公害で川は汚れたが、川をきれいにする運動のおかげで鮭が帰ってくるほどになった。
千保川新幸橋付近にある写真の建造物は何? 1.煙突 2.照明塔 ヒント:91号
参考:98、95、92、87、69、68、36、15号
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新幸橋の横に30年代後半まで舟着場があった:参考15号 |
問6.高岡の歴史から・・・・・・
奈良時代には高岡伏木に国府が置かれていた。746年から5年間国守として赴任していた人物は、この地の美しい自然や、人々の暮らしを歌に詠み、万葉集に多く納めた。万葉集の編纂で有名なのこの人は誰?
1、大伴家持 2、源義経 ヒント:94号 万葉高岡参考:82、46、20、 高岡歴史参考:81、55、52、26、24、23、22号 |
高岡伏木に万葉歴史館がある:参考82号 |
問7.高岡の紹介・・・・・・・
利長は、父利家から受け継いだ太閤ゆかりの山車を高岡町民に与えた。山車として改良し、財力のある商人町が真似て造り、豪華絢爛な山車を7基そろえた。5月1日の御車山祭に、山車が7基列をなして町を巡行する。この山車を所有している町が集まっている通りの名は? 1.車山通り 2.山町筋 ヒント:80号 祭り・イベント参考:85、80、56、49、39、8号
もどころ参考:97、83、64、21、79、67、16、33、34、35、99号
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御車山祭:参考41号 |
問8.金屋町の取り組み・・・・
鋳物工場が移転して変わりつつある金屋町で、人々が動き出した。町並みを考える藤グループが、公園内の清掃、金屋町の観光ガイド、金屋を学ぶ講座を開くなどの活動をしている。公民館の活動も活発になった。また2003年、有志が集まりホームページを開いて情報発信している。 金屋町の歴史と先人の心に触れてもらおうと企画されたイベントは何? 1、さまのこフェスタ 2、いものフェスタ ヒント:17号 フェスタの参考:89、76、65、53、42、28号
その他参考:88、63、62、96、50、45、10、1、2、3、4、5号
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フェスタの様子 金屋の取り組み96号:ホームページ秘話62号 |
問9.金屋町の暮らし・・・・・
金屋の女衆は良く働いた。このごろ男女協働参画と叫ばれているが、金屋では昔から男衆の働きと、女衆の働きが協力し合って栄えてきた。金屋の生活には加賀の習慣や文化の影響を受けて今に伝わっているものが多い。写真の花嫁のれんもその一つである。 金屋人のキャッチフレーズ「昔を〜〜して、今を生きる」昔をどうするのか? 1、思い出して 2、活かして ヒント:6号、12号
参考:77、74、73、72、60、37、32、25、14、13、2号 |
結婚式の日、花嫁のれんをくぐり嫁ぎ先の仏壇にお参りする。 加賀文化参考25号 |
問10.このホームページを金屋なでしこと命名した理由は ヒント:トップページ、参考:61号 |
問1.答1 | 足下の、後へ突き出しているつの状のものが長いほうが雄。鳳鳴橋は昭和8年〜12年に造られた新しい道路(昭和通り)に架けられた橋である。城下町を開くにあたって利長は、詩経の「鳳凰鳴けりかの高岡に」からとって、高岡と命名したという。その話からとって新しい橋の名称を鳳鳴橋とした。おめでたい鳥である鳳凰が現れる町にしたいという利長の思いを感じる。 |
問2.答1 | 由緒鋳物の流れをくむといわれた鋳物師たちは、利長に宅地や仕事場を与えてもらった。その場所は、防火上高岡城から見て千保川の向こう側であった。その後も歴代藩主の手厚い保護により諸役・税の免除、道行の自由、木材伐採などの特権を与えられて栄てきた。江戸時代、北国筋の鋳物師頭役を任せられていたほど力があった。 |
問3.答2 | 金屋の鋳物師は、藩政末期の混乱した時代にも新しい技術や、素材の研究・開発に力を入れ、販路の拡大など努力を重ねてきた。金屋町の石畳通りにある鋳物歴史資料館には、400年にわたる鋳物産業の歴史を背景に、古文書や初期の鋳物技術を知ることのできる鋳物製品、多種多様な造型・鋳物用具など、数多くの資料がある。 |
問4.答2 | 御印祭は6月20日(利長の命日5月20日を新暦になおした日)に御神体を有礒正八幡宮から公民館へお招きして神事が行われる。つらい作業の中で生まれた弥栄節を、昭和のはじめに歌いやすく編曲し、踊りを振付けた。前夜祭で踊るようになったのは戦後である。昭和50年代弥栄節保存会を発足させて、先人の心を次代へ伝えようと、また町の活性化のためにと、熱心に活動している。 |
問5.答2 | 高岡の町中を流れる千保川は、利長のころは庄川の本流であった。三代藩主利常が洪水の害から町を守るために、川筋を今の庄川へ移す大工事をした。水量は減ったが、水運として果たした役割は大きい。昭和30年代まで新幸橋のたもとに舟着場があり、市場へ魚などが運び込まれ、鋳物製品が運び出されて賑わっていたという。作業を見守っていた照明塔が、その場所にいまでも建っている。 |
問6.答1 | 旧石器時代、縄文時代の遺跡もある。海が見える丘陵に古墳が多く残っている。奈良時代には伏木の国府に大伴家持が5年間赴任していた。そのころに詠んだ歌が万葉集に多く納められている。雨晴というところは奥州へ落ち延びていく義経一行が雨宿りをしたという言い伝えがある。二上山頂の守山城は戦国時代複数の大名の城となった。佐々成政、前田利長も一時居城とした。利長は隠居していた富山城を火事で失うと、関野(今の高岡)に城下町を開くことにした。運送手段となる大河が流れ、広い穀倉地帯が広がり、良い条件がそろった土地であった。 |
問7.答2 | 高山右近が縄張り(設計)した高岡城は、利長の死後一国一城令により廃城となった。高岡城は土塁と水郷を残し、広大な利長墓所と瑞龍寺とあわせて、有事に備えていたのではないかと云われている。三代藩主利常は高岡を商工の町としての再生させた。以後、経済の中心として栄えてきたのである。明治33年の大火のあと、住民が土蔵造りの家を建て、重厚な町並みができた。それほどの財力を有していたということである。今、この地区は重要伝統的建造物群保存地区となって観光に訪れる人が多い。また城跡は今は公園となり、市民のいこいの場となっている。 |
問8.答1 | 金屋町は1191年に鋳物の町として開かれてから今日まで鋳物、銅器の町として続いている。昭和30年までは多くの鋳物工場があったが、公害問題、工場の近代化などの理由でほとんどの工場が移転して、静かできれいな町になった。建替える家が増え、昔からの金屋の町並みが消えそうになった。また、美術銅器の低迷などで町の活気が無くなってきた。そこで金屋の人達が動き出した。 |
問9.答2 | 昭和30年代までは汚い騒々しい町であったが、誇り高い職人や威勢の良い商人が行きかい活気にあふれた町だった。高岡は加賀藩であったので金屋の生活にも加賀文化や加賀の生活習慣をみることが出来る。写真の花嫁のれんは結婚式の前に、嫁ぎ先の仏間に掛けてこれをくぐり、ご先祖さまに挨拶する慣わしである。加賀の商家で始まった風習といわれている。私も花嫁のれんをくぐって嫁ぎ先の家族となった。 |
問10 | やまとなでしこが理想の日本女性なら、理想の金屋女性は金屋なでしこです。金屋なでしこを目指して命名した。半人前金屋なでしこ(私のこと)は、「たたら」初回発行より8年と4ヶ月経った今、どれだけ成長したのだろうか。この間に、大学生と高校生だった3人の子供たちは、皆社会人となり、孫(1才10ヶ月)ができた。 |