99号 2008.3月発行

――――――文学の中の高岡――――――

義血侠血
(明治27年11月より「読売新聞」に連載)


泉鏡花
明治6年
石川県金沢市生まれ
検事代理に就任したばかりの若き主人公が大恩を受けた白糸を殺人犯として起訴する羽目になり、法律と恩愛との板挟みとなり、自殺してはてるという悲劇。
明治28年浅草座で「滝の白糸」という題で上演され、人気を博した。
「越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗合馬車あり」
で始まる。
主人公村越欣弥が高岡の片原町に住んでいたという設定になっていることから片原町の角に「滝の白糸」の文学碑がある。
 
泉鏡花の父は加賀象嵌の職人であったが、武士の没落によって衰退していた金沢に仕事がなく、高岡に出稼ぎにきていた。このような縁から物語の舞台を高岡にしたと思われる。

滝の白糸文学碑
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青桐
(昭和59年)
木崎さと子
昭和14年旧満州生まれ
小学5年から高校卒業まで高岡在住
結婚と同時に渡仏し、54年まで米、仏滞在
55年「裸足」で文学界新人賞
60年「青桐」で芥川賞
医療を拒み、苦痛に耐えながら命を全うしようとしているおばの看病の中で自らの生き方を見つけた主人を描いた。
「T駅からは、タクシーで十分もかからない。早朝のT市街を通り抜け、田んぼにはさまれた県道を、スピードをあげてこちらへむかってくる。」
 
参考:社団法人高岡青年会議所十五周年記念誌「たかおかが好き」の一節・・・・・・・・
「北陸の戦災にも遇わなかった古い街にはここから出てゆくことなど思いもしない人々が住んでいて、よその土地から来た人は、十年二十年と住んでも<旅のひと>と呼ばれる・・・中略・・・そんな典型的な‘ある街’がものを書きはじめた私の内部にふと蘇ってくれたのだ。

舞台となった西藤平蔵地区の様子
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七夕の町
(昭和26年)


井上靖
明治40年、北海道生まれ、母の郷里静岡で育つ
昭和24年「闘牛」で芥川賞
北陸へ出張した主人公は戦災後の復興著しい富山を訪ね、かつて一緒に死のうと約束した娘が高岡にいることを知り、七夕の高岡へやって来る。
5年前死のうと約束した娘と行き違いになり、一人乗ったその汽車は復員者で満員の「言ってみればこれは生へ突進しているすざまじい列車だった。」
この列車の中で主人公は死ぬ気が失せていった。

「立花の郷里の伊豆の方でも七月七日の夜は浴衣を着た子供たちが竹笹を持って遊んだが、このように一軒残らずの家々で、こんな大きな竹を軒先に立てて古の民間の行事を今日に伝えているのを見たことはなかった。」

「自分が死神に取り憑かれ、それを落としたように、あの娘も、その理由は知らないが、あの時ふと死神に取り憑かれ、それを落しただけの話であると思った。立花は××町を通り抜けると、やはり高岡の町に降りてよかったと思いながら、七夕の笹の門をゆっくりと潜って歩いて行った。」

平成16年8月
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鶴のいた庭
(昭和32年)

堀田善衛
大正7年射水郡伏木町(現高岡伏木)生まれ
「広場の孤独」芥川賞受賞
スペインなど海外でも活躍
平成10年日本芸術院賞受賞
少年時代の作者の曽祖父の晩年の思い出を通し、由緒ある回船問屋の没落の様子が描かれている。 「その町並みのなかに、一軒、白壁の倉にとりかこまれた、屋根の上に小さな望楼のついた家がある。それが私の生家であり、いまにいたるまで数百年ほどのあいだ、それこそ先祖代々ということばが、他の何物よりもぴったりするような、多くの人々が長く長く住みついて来た、古くどっしりとした木組みで出来た家であった。」
 
作者が小学校に入った年(大正13年)「家」は人手に渡った。
作者の生まれた大正7年からまさに激動の昭和を生き抜いた彼の文学には、万物流動、諸行無常といったテーマが底に流れている。

市指定文化財の旧秋元家の望楼(現高岡市伏木北前船資料館)
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天皇の世紀
(昭和42年元日〜昭和46年作者死亡のため未完)



大佛次郎
明治30年生
代表作「鞍馬天狗」「パリ燃ゆ」
黒船来航によって鎖国を破られ幕藩体制から脱皮して近代国家に変貌しようとしていた時代の諸相
「北陸の加賀、能登一帯に細民の一揆が起こった。」「加賀百万石のことで豊饒なので羨まれていた地方である。」
「封建政治そのものは、加賀に於てさえ百姓一揆が起こったように、行き詰って壁の中で窒息する徴候を示していた。」
「高岡は十六日の夕方、三、四百人が鯨波(とき)の声をあげ、金屋口から横田口に入り、福岡屋清右衛門以下四十二軒の戸障子諸道具を残らず打ち破った。壁まで破壊して立去った場所もあった。十五日の夜には三、四人の少人数で福岡屋に来て、米が高値で困るから値段を下げてくれと申し入れた。明日中に下直に相成り申さぬ時はこの家を初め打毀すから、そのことを承知するように告げて立去った。兇悪のことに成りそうで、どことなく余裕があるのは、土地柄のせいであろう。」
福岡屋のモデルとなった商家