1号 発行 2000.1月

一部追加2009.7月

なるほど・わが町

―金屋町を知る研修会第1回より−

町なみを考える藤グループと、金屋町公民館と共同で「金屋町を知る研修会」を行っています。
第一回は晒谷和子さんによる「金屋町と鋳物職人」という題のお話でした。
聞いてはいたけど,本当だったのね、という事柄がいくつかあったので,紹介します。

噂の真相その1 
鋳物師は弥生時代からいるって本当?
弥生時代中期に我が国ではじめて鋳物が造られました。606年に完成した飛鳥大仏は、渡来人三世の鞍作鳥(止利仏師)という鋳物師がつくりました。法隆寺釈迦三尊像など数々のすぐれた仏像をつくっています。。
噂の真相その2 
御印祭に踊るやがえふの歌詞に「河内丹南、鋳物の起こり」とあるけど真実?
河内国丹南は現在の大阪府南河内郡美原町です。十四世紀中頃までここを中心に鋳物が栄えていたそうです。十五世紀中頃、河内国の鋳物師が諸国に居住することを許され、同時に新規の鋳物師が停止されました。京都の真継家が全国的に鋳物師を支配したそうです。
河内国の鋳物師が越前国府中ー加賀国倶利伽羅ー越中国利波郡を経て、般若郷西保(現:高岡市戸出西部金屋)で鋳造していました。その鋳物師7人を、1161年、前田利長が高岡へ招きました。
噂の真相その3 
前田利長が、西部金屋の鋳物師を高岡へ呼び寄せた証拠は?
前田利長の書状のコピーを見て下さい。慶長十六年(1611)前田利長が西部金屋(現高岡市戸出)の鋳物師に高岡へ移住して仕事をするように命じています。屋敷地の配分については町割奉行が配慮してくれると、書いてあります。真継家からの許状を持つ金屋の鋳物師達は、緒役を免除され藩の保護のもと栄えていったのです。

高岡市立博物館のパンフレットより(高岡市立博物館蔵)

鋳物・・・・・金属を溶かし、鋳型に流し込んで固め、目的の形のものをつくる作業を鋳造といい、
       この方法でできたもの


なでしこの部屋

 たたらちゃ何け?

たたらとは、足で踏む大きな「ふいご」のことです。これを踏んでおこした風を、炎に吹き込み火力を強め、鉄を溶かしたのです。たたらを踏む作業は夜8時から、翌朝6時ごろまで、2組に分かれて交互に踏みつづけられました。大変苦しい労働であり、しかも皆の調子が揃わなければはかどらない作業でした。このような先人の努力あっての伝統産業です。たたらは、まさに金屋の礎を築いたものといえるでしょう。