庄川用水合口堰堤左岸目付の水門柱に掲置してある銅版額(松村謙三筆)

第101号2008.5月発行

――――第3回千保川ウォーキング――
平成20年4月12日、「千保川を語る会」で千保川の源を訪ねました。
8:00高岡市役所前から貸切バスで
庄川上流の砺波市庄川町金屋へ向かいました。
進むにつれ、山がどんどん近くなって来ます。庄川水記念公園でバスを降りて歩きました。
水記念公園隣の庄川用水合口堰堤(合口ダム)から取り込まれた水が水源です。
エドヒガンザクラが山のところどころを桃色に染めて春模様を織り込んでいました。

合口ダム取水口
ここから取り込まれた水は12000ヘクタールに及ぶ砺波野の土地を潤し、高岡戸出の工業団地横から千保川と呼ばれる流れになる。
上の写真の銅版に 「庄川の用水取入口は12箇所あり、取入堰の流失や旱ばつの被害が甚しかったので、藩政時代から合口による適正な配水を企てていた。大正の初めごろから実現に努力した・・・略・・・今や庄川の天与の恩恵を受けるわれわれは永遠にこの偉業を讃え共栄の道を歩みたい。
地下導水管
土手のように見えるが、中に導水管が通っていて、ダムの取水口から取り込まれた水が流れている。
完工20周年に当り事業の概略を刻しこの銅碑を建てる。昭和35年9月3日」 と記されている。

松川除堤防のこと
高岡開町のころは千保川が庄川の本流であった。洪水から町を守るため加賀藩三代藩主の前田利常が川筋を変える大工事を行った。
中野発電所
旧千保川の最も深い所に発電所をつくり、導水管を流れてきた水を落とし、その落差を利用して発電している。合口事業費の一部を負担している。
水は再び地下導水管を流れていく。
 堤防は長さ2kmにもわたり、45年の歳月と、多くの労力を費やして完成した。その後も補強工事が続けられ、堤防を固めるために松の木が植えられた。現在は県道高岡庄川線が通る。戦時中に松は切られて数本しか残っていない。松川除堤防を守るための前堰には松並木が残っている。
元の川筋
中野発電所裏から南西を見ると、田園地帯なのに大きな川があるかのようにみえる風景がある。昔は大雨が降ると水があふれ、元の川筋に流れ込んだ。今でもその一帯には建物が建っていない。
弁財天

「元雄神神社」とも言う
中野放水路分水場
再び地下へ潜った流れが地上へ現れ、少し流れてきた所にある。ここで、一部は庄川へ戻し、千保柳瀬連絡水路と、三用水連絡水路に分かれる。
天正13年(1585)の大地震で庄川の流れが大きく変わり、この地に鎮座していた雄神神社の境内を残し、周辺は全て流された。前田利長が不思議に思い、水の神である弁財天も祀るよう命じたと云う。
三用水分水場
ここで三つの用水に分かれていく。右側の流れが千保川へと繋がっていく庄西幹線水路である。
バスで水記念公園へ戻り、お弁当を食べた。
本殿は現在の庄川右岸山麓に移転し、庄川の中洲となった拝殿跡に雄神神社の御分霊と弁財天を祀る「元雄神神社」が創建された。
午後はバスで移動

神明分水場
ここで分かれた一つの流れが舟戸口用水路となって田畑を潤しながら流れて、やがて千保川となる。
途中散居村ミュージアム見学

舟戸口・千保口合流地点
水田風景の中を、高岡の町めざして流れていく。新しい住宅団地が増えている。
御川除地蔵のこと
庄川右岸の山には緑色凝灰岩の金屋石が採掘され、多くの石工がいた。何度も洪水にあいながらも用水を引き、田畑を耕して暮らしてきた人々を見守る石仏が、いたるところに祀られている。
戸出工業団地
このあたりから千保川と名称がつく。

16:30高岡市役所着
この写真の石仏は江戸時代中期ごろの作。阿弥陀如来像だが地元では川除地蔵と呼ばれている。

なでしこの部屋=======
子供のころ、千保川の水がどこから流れてくるのか、どこまで続いているのか、見てみたいと思っていました。一人で川づたいに歩いて行き、隣の町内との境で怖くなって引き返してきたものです。数十年前の思いを果たすべく、今回の千保川ウォーキングに参加しました。
 砺波市庄川水記念公園の向かいの山には、所々にエドヒガンザクラが自生していて、春の景色を楽しませてくれました。山間から流れてきた水は合口ダムから落ちて庄川となって海へ向います。このダムの左岸から取り込まれる水が千保川へと流れていくことになります。
 西暦1609年、加賀二代藩主前田利長が高岡に隠居城を築いたころは、千保川が庄川の本流でした。この大きな川が城下町の中を流れていたのです。舟で物資を運ぶためにとても役立った川でしたが、洪水から町を守る為に、三代藩主前田利常が川筋を変える大工事を行いました。そのときの堤防の一部が残っていました。元の川跡とその氾濫原は、用水をめぐらして豊かな穀倉地帯となっています。しかし、大雨が降るたび洪水と闘い、旱魃の年には水をめぐっての争いもあったようで、そこに暮らした人々の苦労が偲ばれます。高岡戸出地内で、千保川と名前がついて高岡の町中を流れ、木町で小矢部川に合流します。藩政時代、千保川の舟運は高岡の発展を支えました。
 川の恩恵に感謝しながら、豊かな実りをめざした人々の姿が見えたウォーキングでした。砺波土蔵の会の方々のお話を聞きながら歩いて、より深く千保川を知ることができたことを感謝しています