鳳鳴橋「鳳凰鳴けり彼の高岡に」
     前田家16代利為書レリーフ

第93号2007.9月発行


――――――前田利長:高岡での5年間――――――
加賀藩二代藩主であった前田利長、慶長14年(1609)9月13日高岡城入城
慶長19年(1614)5月20日病没


1598(慶長3)年4月、隠居した父前田利家の跡を継ぎ、利長が藩主の地位についた。2年後の1600(慶長5)年に起こった関ケ原の戦いでは、徳川家康側について戦い、その功績により加賀・越中・能登三カ国120万石を領有する大大名になった。
1605(慶長10)年には藩主の地位を弟の利常に譲り、富山城に移り住んだ。1609(慶長14)年火災にあい、高岡で堅個な城を築き、城下町を営むことにした。
加賀・越中・能登の三国の中心射水・砺波平野の穀倉地帯を背後に控え、食料、その他の生活物資を確保しやすい小矢部川と千保川(当時は庄川)が近くを流れ、水運の便が良い小高い大地があり、北の沼田、東西の大河が敵の攻撃に対する防備となった。高岡城の設計は築城の名手として知られた高山右近だった。
高岡の名の由来
中国の詩経の一節「鳳凰鳴矣干彼高岡」からとったと云われている。鳳凰は聖天子の出現を待って現れるという想像上の鳥である。だから鳳凰が鳴くという「高岡」にちなんで命名したのだと思われる。利長はこの地に、平和で豊かな国を築きたかったのだろう。
町づくり
・物資の集積地として小矢部川と千保川の合流点に木町
・北陸道が町の中を通るように変更
・城下町は北陸道に沿って碁盤の目のように整えた
・町中に3本の用水を流し、防衛と防火
・利長と一緒に高岡に来た武士たちの屋敷は城付近の高台や交通の要所
・旧城下の守山、木舟をはじめ、各地から町人を集め、高台より一段低いところから千保川にかけて住まわせた
・鋳物師を招き、防火上千保川の左岸に屋敷を与え、住まわせ、仕事をさせた。
・神社や寺院は有事のさい砦として使用することを考えて、城下の周辺や要所に配置




前田利長の高岡での5年
1609 富山大火。富山城焼失。
関野の地に城を築くことを決め許可をもらう。
高山右近の縄張り(設計)で築城。金沢城をしのぐ軍事の拠点としての機能を持たせた。
9月13日、関野を高岡と改め、入城。
1610 病気(悪性の腫れ物)になる。
夫銀の制を定める。
1611 病重くなり遺言を作る。新川郡亀谷銀山(大山町)を開き、花降銀を鋳造する。
砺波郡西部金屋(現高岡市戸出西部金屋)の鋳物師を招き、拝領地を与え諸役を免除し、鋳物産業を興す(現高岡市金屋町)。
1612 秀忠、家康、に銀、絹、布、などを贈る。
1613 正月、病重くなり家康、秀忠に刀を献上。冬、徳川と豊臣対立。秀頼よりの誘いを断る。
1614 「我死なば、即ち天下自ら統一して太平ならん」と言い残し、
5月20日、高岡城において死去。
6月、母芳春院、人質を解かれ江戸よりの帰途に高岡に立ち寄る。
10月〜12月、大阪冬の陣。
1615 5月、大阪夏の陣。豊臣氏滅亡。
一国一城令により高岡城廃城。
家臣団金沢へ引き上げる。
一番町辺り
最も早くできた町。→


守山町
二上山山頂に守山城があったころの城下から、移り住んだ人々の町。今は商売をしている家が多い。→


檜物屋町
箪笥などの家具をつくる職人の住んでいた町。今も家具屋さんが多い。→


旅籠町
北陸街道沿いの高岡町の西口にあたり、宿屋が多くあった。生活用品を売る店も多かった。→


金屋町
鋳物師の住宅の後ろ側に鋳物工場があった。今は工場は郊外へ移ったが、鋳物に従事している人が多く住んでいる。→
参考:高岡市立博物館HP


利長のつらい胸中
高岡での五年間は利長にとって、昔からのつきあいの豊臣氏とどうつきあうか、勢いを増してきた徳川氏をどう牽制していくか、苦しい日々であったと思われる。高岡城が、家康との一大決戦を想定していたのではないかと思わせる造りになっていることから察することができる。


高岡は加越能三国の新しい政治、経済の拠点となったが、利長の死後の翌年、一国一城令により廃城となり、家臣団は金沢へ引き上げた。
3代利常が商工業の町として発展させた。
瑞龍寺(利長の菩提寺) 利長墓所