15号 発行 2001.3月

〜春のうららの隅田川ならぬ、千保川〜

春のおだやかな陽射しのなか、岸の家々を映して静かに千保川が流れる。親たちが子供のころはこの川で泳いだり、花を摘んだり、釣りをしたりして遊んだそうだ。新幸橋の橋詰に舟着場があって、川原の魚市場へ魚を運んだり、県外からの炭や材木が運び込まれ、大変にぎわっていたそうだ。私が子供のころは、コンクリートで固められた両岸に立ち並ぶ工場から、排水が流れていて非常に汚れていた。近年、道路網の発達により、舟より多く速く便利に物資を輸送できるようになったことと、新しい設備のため広い場所が必要になったことから、ほとんどの工場が移転した。舟着場も無くなったので、魚市場も移転してしまった。今の川にまた魚が住めるようになったのか、白い大きな鳥がえさを取っているのを見かける。

前田利長公が高岡を開いたころの千保川は庄川の本流で、時々暴れては人々を困らせたが、高岡の町にとっては恵みの川であり、物資の運搬にはなくてはならない大動脈であった。高岡から米、鋳物、綿製品が運び出され、石炭や薪、肥料、木材、魚類などが運び込まれた。木町や川原町は大変な賑わいをみせていた。
18世紀初期に「松川除」の工事をして、今の庄川が主流になってからは、洪水に悩まされることはなくなったが、渡海船が接岸できなくなり、伏木で長舟に積み替えて川原町の舟着き場まで運んだそうだ。

明治終わり頃の舟着場と新幸橋(上写真と同場所)

※「松川除」とは庄川の本流を中田・大門川筋に固定し、千保川・中村川・荒又川・野尻川など旧庄川の本流・分流を上流で締めきり、用水化するために築かれた大堤防のことである。

写真―開町370年・市制90周年・記念写真集―


恵比寿塔


新幸橋の橋詰には、今でも当時の照明塔が残っていて
止まることのない川の流れと、時の流れを
見つめている





なでしこの部屋

雪解けのころ

外は明るい陽射しがいっぱいなのに、ぴっちゃん、ぴっちゃんと雨だれの音を作っているのは、屋根の雪解け水です。暗い冬のトンネルを抜けて明るくなっただけでもうれしいのに、心地よい雪解け水の音はさらに心を踊らせてくれます。
 私が子供のころこの時季には、お寺の境内で子供たちの甲高い声が響き合っていたものです。カーンという缶けりの音、自転車の音、走り回る足音、けんかになったのか乱暴な声、ゲームに勝った歓声、ハプニングでも起きたのか大きな笑い声、などなど・・
子供部屋の窓から次々流れ込んでくると、私もじっとしていられません。いつのまにか甲高い声のなかに入っているのでした。雨が降っていても、お寺にいくと大きな屋根の下に必ず誰かいて、遊びが始まったものでした。