瑞龍寺にて

86号 2007.2月発行

――――――やがえふ in 夜の国宝瑞龍寺――――――
2月10日11日12日の三日間瑞龍寺がライトアップされ、
冬の凍て付いた空に創玄に映し出されました。
総門前では門前市が開かれ、地元住民らが出店した飲食屋台が軒を連ねました。
初日には法堂で、わが金屋町に伝わる郷土民謡「弥栄節」を披露しました。
大茶堂ではハンドベルの演奏会が開かれ大勢の人で賑わいました。


金屋町は利長公が鋳物師を招いて仕事をさせた町で、その後手厚い保護のもと鋳物産業が栄えて今にいたっています。 弥栄節は鋳物の作業から生まれた唄ですので、
弥栄節保存会一同は利長公に感謝の意を込めて踊りをさせてもらいました。
瑞龍寺は曹洞宗の名刹で加賀藩二代藩主前田利長の菩提寺として、
三代藩主前田利常によって建立されました。江戸時代初期の曹洞宗寺院建築で、
総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配した均衡美を醸し出していて、
壮麗な伽藍配置を今に伝えるものとして、その建築技術は高く評価されています。
平成9年に山門、仏殿、法堂が国宝に指定されました。
総門、禅堂、大茶堂なども国の重要文化財に指定されています。

山門
左右に金剛力士像がにらみをきかせています。雪国に合わせて軒は深くとり、雪を配慮して上下層の屋根を同じ規模になっていて重厚な感じがします。
両側から回廊が続いていて伽藍を囲んでいます。障子がはいっている回廊はめずらしいらしいです。これも雪国だからでしょうか。
仏殿
重量感のある屋根がどっしりと鎮座して力強い雰囲気の建物です。屋根の鉛瓦は47tもあり、これを支えるに十分な架構が施されています。軒下で上を見上げると、軒先の斗組が均整のとれた複雑なリズムをきざんでいます。

法堂
入母屋造り銅板葺きで、正面に唐破風造りの玄関です。落ち着いたやさしい感じの建物です。利長公の位牌が祀られています。書院の用途も持たせてあったようで優雅な雰囲気のある建物です。

総門
お寺の門というよりお城の門の様式だそうです。創建当時の寺域は3万6000坪もあったそうで、まさにお城のようなお寺だったようです。
なでしこの部屋瑞龍寺秘話
天保3年(1646)利長の三十三回忌に、利常が瑞龍寺建築を始めます。加賀藩の家督を譲られた恩義に感謝してのことでした。江戸に幕府が開かれていたころですがまだ戦国の記憶が消えてはいませんでした。徳川からの命令で一国に一つの城しか許されなかった中で、お寺にお城としての機能をもたせようとしたのでしょうか。広さは3万6000坪もあり周りに水濠をめぐらせてあったそうです。しかも仏殿の屋根を鉛瓦で葺いて、いざというときに鉄砲の弾にしようと考えていたのです。
さて、重厚な造りの建物郡の中にあって優雅な雰囲気をただよわせている法堂もなにやら秘密がありそうです。知人の山本和代子さんは豊臣秀吉が築いた京都聚楽第の建物を移築したのではないかとおっしゃいます。詳しい話を知りたい方は、高岡文化情報誌「きらめき」bS9、平成19年度上期号をお読みください。山本さんの話に引き込まれます。
長い歴史の中で、浴室が焼失し、また財政難から建物の一部を切り売りしていたこともあったようです。国宝となった今、かけがえのない大切な宝物として、その時代の人々の心や、技術も含めて次代へ残していきたいものです。