41号 御車山:高岡町衆の心意気
発行 2003.5月
j重要有形・無形民俗文化財
高岡御車山祭
 (5月1日)

豊臣秀吉が京都の聚楽第に天皇を招いたときに使用した御所車を、前田利家が譲り受け、長子の利長に譲り、利長が高岡町民に与えた。そして大町7町が、鉾山車に改装し、高岡関野神社の祭礼に奉曳されたのが始まりといわれている。
高岡伝統の金工、漆工を始め、工芸技術の粋を結集した豪華な装飾で、桃山の作風をよく残している。
神を迎える形式を良く具備し、古代信仰の古儀を今に伝える点を高く評価されている。

写真:筆者撮影

通町
鉾留 鳥兜(とりかぶと)
本座 布袋和尚

通町は旧市街地の西南部に位置し、旧北陸道を通って藩府金沢から高岡の町への入口にあたり、開町以来小売業の盛んな所である。
御馬出町
鉾留 胡簗(やなぐい)に弓矢
本座 佐野源左衛門

「升形」の下に位置し、軍馬が繰り出す所だった。藩主の宿泊や休息には、当町の天野屋宅が「本陣」として使用された。
守山町
鉾留 五鈷鈴(ごこれい)
本座 恵比寿

旧守山城下の住民が移り住み、商売を始めたことに由来する。明治期は高岡市の金融業の中心として栄え、今でも銀行や質商などの金融関係の建物が多く残っている。
木舟町
鉾留 胡蝶(こちょう)
本座 大黒天

旧木舟城下から移住した人々により作られた。町屋として割り当てられた最上の地で、守山町・木舟町・小馬出町と続く旧北陸道に面する三ケ町は「通筋」と呼ばれ、高岡の中心地であった。
7台の山の写真:「高岡御車山」小学校版(高岡市教育委員会発行)
小馬出町
鉾留 太鼓に鶏
本座 猩猩(しょうじょう)

小馬出町は、信州上田より安元四郎左衛門という武士がきて、諸芸指南をしたのが始まりである。その後も信州からやってくる人が多く、初めは信濃町と称していたが、小馬出町に改められた。
一番街通
鉾留 釣鐘
本座 尉と姥

この一台だけが「源平町」「三番町」「一番町」の三町で共有されている。一番町、三番町は開町時に町立てされた順番を表し、源平町は、小間物屋や板屋職人が住んだことから源平板屋町と呼ばれた。
二番町
鉾留 桐
本座 千枚分銅

二番目に町立てしたことにより名づけられた。現在の永明寺付近に「町会所」が設けられ、町奉行など藩の役人や、由緒町人の中から選ばれた「町年寄」などの町役人が詰め、高岡の町政にあたった。
こうやって町の紹介をしてくると、昔の高岡町の様子がわかります。様々な職業の人々がそれぞれの役割を果しながら、力強く生活していたのが伝わってきます。

参考資料:御車山のガイドさんからもらった小冊子


夜の御車山

5月1日、夕食を終えてから主人と二人で、ライトアップされている御車山を見に行きました。いつもなら親戚の宴席に招かれ祭の夜を楽しんでいたのですが、今年は都合があって催されなかったので、始めて夜の御車山を見ました。闇の中、光を受けて七台の御車山が並んでいるのは壮観でした。金色の鉾が光り、色とりどりの花笠が華やぎ、漆塗りの車の金具が輝き、幕の刺繍絵も引き立って、昼間見る山とは違う美しさがありました。1台1台のそばにボランティアガイドさんがいらして、説明をしてくださいました。パンフレットをもらって帰って、居間でじっくり読みながら、御車山を堪能した夜でした。