94号2007.10月発行 |
――――――大伴家持:高岡伏木での5年間――――――
746年越中国守として赴任
751年帰京
万葉集を編纂した大伴家持は746年6月から751年8月までの5年間越中の国守として高岡伏木に住んでいた。万葉集には高岡やその周辺で詠まれた歌が多く残っている。この地は四季おりおりに変化するすばらしい自然に恵まれていた。その中で人々と温かい交わりをもち、家持は美しい歌を作り上げた。家持の歌を詠むと、1200年も前の風物や生活の様子が絵のように浮かび上がってくる。
高岡市では毎年10月初旬に、家持を偲んで万葉集全20巻4516首を3昼夜かけて詠みあげる「朗唱の会」を開催している。今年も多くの人が万葉の衣装に身を包みいにしえの世界を楽しんだ。見物しているほうもしばし万葉人の気分を味えた。
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家持が越中の国守として高岡伏木に来たとき29歳であった。国庁は今の勝興寺あたりにあったと伝えられている。国が乱れないように人々を治める仕事や、税を集めるための仕事をしていた。
748年に2月、出挙(すいこ)のため越中諸郡巡行に出かけた。出挙というのは、春農民に稲を貸し出し秋に利息の稲と一緒に返させる制度のこと。国守の仕事の中でも重要なものであった。 万葉集は雄略天皇の歌から聖武天皇時代の744年までの歌が第16巻におさめられている。
第17巻から第20巻は家持の746年からの歌日記の形で編纂されている。
その歌日記の一部を紹介しよう |
万葉集より抜粋
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家持は叔母の歌に送られて越中に入った 8月7日の夜に国守館で家持主催の宴が開かれた。そのときの歌がいくつかある。 天平19年春2月 家持が病に倒れ、しばらく病床にあった時、大伴池主と歌を贈答した。
越中の自然が家持の歌作りの心を育てた。
能登半島の北端珠洲まで国守巡行の旅をした。 家持は珠洲から船で国府に帰った。
都の大仏造営のために陸奥国より黄金が献上された。 砺波にある東大寺の占墾地使の僧平栄らに酒を贈っている。
前年の秋に婦人を越中に連れて来たことから、今までにない明るい晴れ晴れとしたはずむような歌心を発揮して、3月1日〜3日まで美しい歌を12首詠む 「越中秀吟」
751年7月 家持は少納言に任命されて都に帰ることになった
8月4日
餞別の宴が開かれ、その席で歌った
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戻った都では家持が頼りにしていた橘諸兄が力を失っていた。家持も中央の政治から遠ざけられるようになっていた。
759年の正月に、左遷された因幡の国庁で詠んだ歌をもって「万葉集」全20巻は幕を閉じる。
新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重けよごと(4516)
このとき家持42歳。785年、陸奥の国多賀で68歳で亡くなるまでの26年間家持の歌が残っていない。
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高岡市万葉歴史館 |