111号2009.3月発行

宮川町(金屋七町のひとつ)この道はもとは川でした。
中央億に有礒正八幡宮の御神木が見えます。


前田利常のまちつくり

江戸幕府は元和元年(1615)、全国の大名に「一国一城令」を出しました。
加賀藩では金沢城を残し、高岡城を廃城としました。
しかし
利常は高岡城の建造物は壊しましたが濠と土構を残しました。
万が一の有事に備えていたのでした。
町を存続させるために町人が町から転出することを禁じました。
そして商工業都市への再生に力を注ぎました。

交通の便をよくするために往還道(北国街道)を城跡に前を通るように付け替えました。
布を検印する「布御印押人」を高岡に置いて越中で生産された布はすべて高岡に集まるようにしました。
公用貨物、信書輸送の御荷物宿を高岡に置きました。
加賀藩領のうち越中全域の魚を管理する魚問屋を置きました。
塩問屋の設置、米蔵を設置しました。
また、町の核となる施設として藩主専用の旅館である御旅屋を建設しました。広大な敷地に濠を巡らしあたかも城郭のようであったそうです。
江戸時代からある町紹介:91号

今の御旅屋町

利長墓所(墓碑全体の大きさ約11.75m)国史跡指定
利長の33回忌にあたる正保3年(1646)利常が造営しました。二重の堀に囲まれた一万坪の広大な土地にあります。
墳墓部分を全面戸室石(石川県産)で覆い、立面を江戸初期の絵師狩野探幽下絵と伝わる蓮の花の図で飾られています。全国の大名個人墓所でも類を見ない規模です。
偉大な兄への尊敬の思いと、母の違う弟である自分を藩主として育ててくれた感謝の気持ちが強かったことがうかがえます。

瑞龍寺:利長の菩提寺(禅宗建築様式)国宝
正保2年(1645)に着手され完成したのは50回忌にあたる寛文3年(1663)でした。創建当時の敷地面積3万6千坪、古城公園の半分の広さがありました。周囲に濠をめぐらし、まさに城郭を思わせるものだっだそうです。
屋根を鉛の瓦で葺いてあるのは、有事に鉄砲の弾にするためだと云うことです。
瑞龍寺紹介86号33号

柳瀬普請
承応2年、太田(現:砺波市太田)のあたりで、千保川の流れが支流の増仁川へ流れ込み、高岡の瑞龍寺へ迫りました。利常は瑞龍寺や高岡の町を水害から守るため、川筋を変える工事をしました。この工事を柳瀬普請といいます。
利常亡きあと、1670年、藩は千保川をはじめ、西を流れていた複数の川筋を東へ移し、庄川の流れを一本化する工事をはじめました。堤防は長さ2kmにもわたり、45年の歳月と多くの労力を費やして、正徳4年(1714)に完成しました。その後も補強工事が続けられ、堤防を強固にするために松の木が数百本植えられたことから「松川除」とよばれるようになりました。
松川除け紹介101号68号69号
 
 
前田利常という武将
前田利家の四男。利長とは異母兄弟。
1600年に丹羽長重へ人質として送られますが、長重が関ヶ原で西軍につき改易されたため金沢に戻りました。1601年、徳川秀忠の娘・珠と結婚しました。1605年利長の隠居にともない13歳で前田家の三代目となります。
大阪の陣が起こると、1万2千という外様大名最大の兵力を率いて出陣。夏の陣・天王山・岡山での最終決戦では3200の首級を上げる大活躍をしたため、その戦功で参議に進みました。

前田家は豊臣恩顧の大名であり、徳川政権下最大の大名であったため、始終幕府に警戒されました。前田謀反を疑われたこともありました。大阪城や江戸城の修繕普請などにも積極的に参加するなど、利常は常に気を使いました。無能に見せかけるため鼻毛を伸ばして馬鹿を演じていたのは有名な話です。
内政面では、城下の整備、用水の建設などで城下町を発展させました。農政法の「改作法」を定めて飴と鞭の政策で藩財政を立て直しました。諸産業、文化面にも力を注いだと云われています。伊達正宗も「日本一の大名」と評しています。


高岡は北陸を代表する商工業都市として生まれ変わり、
いまも「ものづくりの町」として発展しています。
多くの文化財、伝統文化なども脈々と受け継がれています。
今の生活のなかにも加賀の暮らしが生きています。
お正月に天神様(前田家は菅原道真を祖先としてあがめている)を飾る。天神様紹介:85号
お正月のお茶菓子は福梅(前田家の梅鉢紋)。
加賀の流れをくむ郷土料理も多くあります。わが家の正月紹介:25号



  


年表
前田利長 前田利常
永禄5年(1562)
尾張国荒子城(現名古屋市中川区)に前田利家の嫡男として誕生
天正9年(1581) 織田信長の五女永姫と結婚越前府中(現武生市)に封ぜられ、3万3千石を与えられる。
天正10年(1582) 夫婦で上洛途中に本能寺の変を聞く。
天正11年(1583) 賎ヶ岳の戦い。松任に転封され4万石を与えられる。
天正12年(1584) 能登末森城の合戦。佐々成政を敗る。
天正13年(1585) 秀吉軍、越中の成政征伐。守山に転封され、成政旧領の越中3群を拝領。
天正15年(1587) 秀吉の九州征伐に従い、豊前厳石城を攻め戦功を立てる。
天正18年(1590) 秀吉の小田原征伐に従い、上野・武蔵・相模など各地の諸城を陥れる。9月豊臣秀吉天下統一。
文禄元年(1592) 聚楽第行幸に陪席。文禄の役(朝鮮出兵)で利家は肥前名護屋に在陣。利長は金沢城で留守を守り、軍需品の調達にあたる。 文禄2(1593) 前田利家の四男として金沢城で誕生。利長とは異母兄弟。射水郡守山城(現高岡市)で育つ。
慶長2年(1597) 新川郡富山城に移る。
慶長3年(1598) 家督を譲り受け、加賀藩二代藩主となり、金沢城入城。8月秀吉死去。
慶長4年(1599) 利家死去。豊臣家五大老に列し、大阪で秀頼を補佐。8月金沢へ帰国。家康の加賀征伐の噂が流れる。 慶長4(1599) 父利家死去
慶長5年(1600) 5月、母芳春院人質として江戸へ下る。9月、関ヶ原の戦い。徳川方に属し、家康より加越能三国120万石を与えられる 慶長5年(1600) 育つ丹羽長重へ人質として送られるが、関ヶ原の戦い後改易された。
慶長6年(1601) 異母兄弟の利常を後継ぎと定める。利常と徳川秀忠の娘・珠姫結婚。 慶長6(1601) 徳川秀忠(後の二代将軍)の二女・珠姫と結婚。
慶長8年(1603) 徳川家康、征夷大将軍となる。
慶長10年(1605) 利常に家督を譲り、富山城で隠居。 慶長10(1605) 兄利長が隠居、13歳で加賀藩主に
慶長14年(1609) 3月富山大火、魚津城に移る。5月、射水郡関野に高山右近の縄張り(設計)で築城開始。9月13日、関野を高岡と改め、未完成の高岡城へ入城。
慶長15年(1610) ヨウ(悪性の腫れもの)を病む。
慶長16年(1611) 鋳物師を招き、拝領地内で仕事をさせる。亀谷銀山を開き、花降銀を鋳造。
慶長18年(1613) 病、重くなる。徳川と豊臣対立。秀頼からの誘いを断る。
慶長19年(1614) 高岡城において死去。法名「瑞龍院殿聖山英賢大居士」 慶長19(1614) 兄利長死去。大阪冬の陣に出陣。
元和元(1615) 長男誕生(後の四代光高)。5月大阪夏の陣で活躍。豊臣氏滅亡。一国一城令。高岡の家臣団、金沢へ引き上げる。
元和6(1620) 高岡町人の他所転出禁止令。
寛永5(1628) 往還道の付け替え。
寛永12(1635) 布御印押人の創設。
寛永13(1636) 江戸城総郭の修築を請け負う。
寛永16(1639) 利常隠居。富山藩、大聖寺藩を分立。
正保2(1645) 光高死去。五代藩主綱紀(3歳)の後見人となる。利長の菩提寺・瑞龍寺の建設開始。
正保3(1646) 利長墓所を建立
慶安4(1651) 農政改革「改作法」を実施。
承応2(1653) 柳ヶ瀬枡形を普請。
承応3(1654) 御荷物宿の創設。
万治元(1658) 脳いっ血で倒れ死去。66歳