69号 2005.9月発行
鳳鳴橋上の鳳凰像・・・・参考:たたら36号
―――――――続*さやかに歌う千保川―――――――
船着場がありました ・・・川原本町    参考:たたら15号
昭和30年代終わりごろに護岸工事が行われ、船着場はなくなりました。写真左の道は昔は川でした。(今は道の下を流れています)この合流地点に船着場がありました。高い建物があるあたりは、庄川の本流だったころの中洲です。中島町という町名になっています。
長舟が物資を運んでいて、近くに魚市場がありましたし、木材、炭などを商っている商店が多くありました。人々が行きかい、非常に活気のある場所でした。

子供のころ工場が建ち並んでいました
・・・大町
今は住宅地となっていますが、少し前まで水運の利便性から、川の両岸に多くの工場が建ち並んでいました。まだ公害に対する意識の低い頃でしたから、煙は出し放題、汚れた水は流し放題でした。川面に油が浮かび、赤やら青やらに変色した水が妙な模様を描いて、悪臭を放ちながら流れていたのを思い出します。もちろん魚は住めなくなっていました。

小矢部川との合流地点に港がありました
下写真の右の川は小矢部川・中央が千保川

・・・木町
木町は高岡城築城と共に町造りが行われました。資材の陸揚げ基地として、材木商や廻船業者が集められた。千保川の荷物運送の全ての采配権を与えられた。
右の写真は左の写真の対岸から撮ったもの。
右から流れ込んでいるのが千保川で、大きな流れが小矢部川です。

増水した千保川(平成17年6月)
川掃除の様子
昔から何度も洪水に泣かされてきました。橋は流され、辺り一帯が水につかり、大きな被害をもたらしました。特に川原町は、庄川の本流だったころ川原だったそうでよく浸水しました。護岸工事後は大きな被害は減りましたが、これだけ増水すると不安です。右の写真のように年一回住民総出で川掃除をします。

七夕祭り・・願い短冊の川流し 8月7日
水天宮・・灯籠流し 8月16日

去年までは短冊で飾られた竹を流していましたが、今年の七夕祭り(参考:たたら8号たたら56号)は短冊のみを舟で流しました。宮司さんに祈願していただいた願い短冊は舟で旅立っていきました。










先祖の霊、千保川で亡くなった人、千保川の水害で亡くなった人の霊を慰めるために、灯籠流しが行われます。


心の中の千保川

 「さやかに歌う千保川〜」口ずさむと、小学校の校舎や友達の顔が浮かんできます。私が小学生のころは護岸工事がされていて川で遊んだ思い出はありません。とても汚れた川だった記憶があります。
 私が4歳のころ、弟の七夕(七夕祭りは男の子のもの)を千保川へ流しにいったのをかすかに覚えています。まだ土手があり、川も汚れていないころでした。千保川を下った七夕はやがて天の川へ流れていくと思っていた私は、夜空を眺めて七夕をさがしていたものです。しばらくして川流しが禁止されて寂しく思っていましたが、息子が生まれたころに、許可制にして川下で引き上げるという形で復活しました。しかしそれも今年からは、短冊だけを舟にのせて流すという形に縮小されました。夢を育む行事はなくさないでほしいと思います。
 主人のおかあさんが子供のころは、川で泳いだり、土手で遊んだりしたそうです。わが家の裏は千保川に面していて、向う岸が船着場になっていたそうです。商売をしているわが家に品物を運んできた船頭さんが、並んで腰掛けてお弁当を食べていたそうです。「それはそれは大きなお弁当で、おいしそうやった」と、おかあさんがなつかしそうに話してくれました。実家の亡くなった祖父は、「じいちゃんが生まれるまえは、千保川のほとりに住んでいたそうだが、洪水でぜーんぶ流されてしまった。蔵のカギが橋のけたに引っかかっていたそうで、それだけが思い出の品物だ。」そんな話をしてくれたことがありました。金屋町の人々の心の中に千保川が流れています。
 数年前に、庄川へあがる鮭が一匹、きれいになった千保川へ迷い込みました。もともと庄川の本流だったのですから、心の中の遠い記憶に導かれ千保川へあがってきたのでしょうか。最近では小学校で鮭の稚魚を放流しているようです。すべての魚が帰ってこられるようなきれいな川にしておきないものです。