天満宮の牛

85号 2007.1月発行


――――――高岡の天神様――――――

天神様は菅原道真公が神となられたもので、学問の神様として信仰されています。
道真公は文章博士という儒学者としての最高位に立ち、藤原氏出身ではなくして、
従二位右大臣にまで上りつめました。
しかしながら、ねたみから大宰府へ左遷されそこで亡くなりました。
その後京に異変が起こり、道真公の祟りだと恐れてその霊を慰めるため、
天満大自在天神と崇められるようになったそうです。

ここ高岡での天神信仰の形は他でみられない独特のものです。

わが家の天神様
私が住んでいる高岡では、お正月には床の間に天神様を飾ります。長男が生まれると、最初の正月に飾るためにお嫁さんの実家から掛け軸か木彫りの天神様が贈られます。長男にかぎられていますので、次男が分家しても男の子が生まれるまで床の間に天神様はありません。我が家は古い家なので代々の天神様があります。お正月には天神様の掛け軸3本と、息子の木彫りの天神様が床の間に勢ぞろいです。天神信仰は全国いたるところでさかんですがこのような形は他に類を見ないとのことです。加賀藩のお殿様が菅原道真公とゆかりがあるということから、このように信仰しているという説もありますが定かではありません
     ご先祖さまの天神様です
主人の天神様です 息子の天神様です


山町筋の
天神様
山町は、前田利長ゆかりの山車を有している七ケ町のことです。町の中を貫いている旧北国街道筋を山町筋と呼びます。このあたりは、400年前の開町当時からの歴史を持つ所で、商人町として栄え今に至っています。
明治の大火で焼けた後、土蔵造りの家が建てられ、今も重厚な雰囲気の町並を形成しています。
月13日、14日、その山町筋で天神様祭りが開かれました。山町や市内外の旧家が所蔵する掛軸や木彫りの天神様が、商店の店先や民家の床の間に飾られます。
約60点の天神様を見ながら、歴史ある町並みの散策も楽しいものです


なでしこの部屋天神信仰

「とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ、ちょっと通してくだしゃんせ、御用のない者通しゃせぬ、この子の七つのお祝いにお札を納めにまいります、行きはよいよい、帰りは怖い、怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ
よく知られているこのわらべ歌にある天神様はとても身近な神様です。子どもの健やかな成長を願っているのですが、子供心にどこか恐ろしい感じの歌でした。
天神様といえば、菅原道真のことですが「神」になられるにはこんな訳がありました。従二位右大臣にまで上り詰めた道真公は、ねたみから大宰府へ左遷され、そこで亡くなります。その後、大宰府へ追いやった本人は早世し、その周りに不幸が起こり、道真公の祟りだと恐れられます。道真没後27年清涼殿へ落雷があって、時の大納言らは死亡、清涼殿は炎上、そのショックで醍醐天皇も寝込み、まもなく崩御されました。いよいよ祟りを恐れて、北野天満宮に道真公を天満大自在天神として祀ります。もともと北野の地にはすでに雷神としての「天神」が祀られていました。そこへ合祀されたわけです。
「天神」とは具体的には雷を指し、晴雨を差配する神なので、農耕の民には身近な神様として各地に祀られていたようです。そこへ賢い道真公が神となった天神様を合祀して、こどもの健全な成長も祈願するようになったのでしょうか。だから天神様といっても道真公と関係のない宮もあるようです。
毎年受験シーズンには各地の天満宮に受験生が大勢つめかけて合格を祈ります。波乱の生涯だった道真公は、大志を抱く若者にきっと力を貸してくださることでしょう。
お正月の床の間に天神様が鎮座されます高岡の天神信仰は、加賀藩藩主の前田家が菅原道真の子孫であるとの謂れに由来するものなのかどうかはわかりませんが、学問の神様で、わらべ歌のように子どもの成長を見守ってくださる神様であるところを信仰しているのでしょう。
「天神様の前で書初めをすると字が上手になるよ」と言われて書初めをしていた子供だちも字は上手かどうか別にして、大病もせず成長しました。長女は結婚し、男の子が生まれ、長男は3月に大学院を卒業し就職します。次女は大学院で頑張っています。あのわらべ歌の意味は今もよくわからないのですが、怖いながらも通って良かったのです。