110号2009.2月発行 |
金屋古町:突き当たりが旧北国街道 |
利長は加賀藩開祖・前田利家の長男で二代目藩主です。 関ヶ原の戦いが終わり、1603年徳川家康が征夷大将軍になりました。 2年後、家康は三男の秀忠に将軍職を譲りました。 焦った豊臣は前田家を味方につけようとします。 けれど、利長の後継者・利常の正室は、将軍の娘です。 慶長10年(1605)、豊臣の誘いを断り、 将軍の縁者となった利常に藩主を譲り隠居しました。 |
なぜ新しい城が必要だったのでしょうか? |
隠居していた富山城が大火で焼失したためです。
44歳のまだ若い利長が隠居したのには理由がありました。
豊臣政権末期の五大老は、利長の父前田利家、徳川家康、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝でした。1599年に秀吉、翌年に利家が相次いで亡くなると、家康が台頭してきて、利長はあらぬ噂をたてられ、家康に攻められそうになりました。利長の母が人質として江戸へ行くことで話が落ち着きました。関ヶ原の戦いでは家康側につき、合戦後加越能三国120万石をもらいました。翌年家康は自らの息子秀忠の娘珠姫と、利長の後継者の利常(異母弟)との結婚を決めました。1603年家康が将軍となり、将軍家の縁者となった利常を1605年に藩主にして、利長は隠居したのでした。徳川と豊臣との板挟み状態の中で、一線を退き、新しい隠居城から利常を後見する考えだったのではないでしょうか。
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写真は高岡古城公園。 高岡城跡です。建物はありませんが、当時のままの濠や、石垣や土塁の一部が残っています。高山右近の縄張り(設計)で、有事に備えた頑強な城だったようです。金沢城をしのぐ壮大な構想を描いていたと考えられています。 高岡古城公園紹介:105号・52号 |
なぜ関野(高岡開町前の地名)の地を選んだのでしょうか? |
関野は庄川扇状地末端の台地です。その台地の北から西は広大な沼地でした。
ここは加賀、越中、能登の地理的な中心であり、政治、軍事、経済的にも中心になりうる場所でした。砺波、射水両平野の穀倉地帯が広がっています。千保川(当時庄川の本流)、小矢部川二つの大河が流れていて舟運に適していました。小矢部川の河口には外港である伏木港があり、各地と繋がっていました。また近くを北国街道が通っていました。
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写真は二上山の守山城跡から関野の地を眺めたもの。 利長は天正13年(1585)から慶長2年(1597)までの約13年間、二上山の守山城主でした。関野を見下ろして、城を築くならここにと考えていたのではないでしょうか。 二上山紹介:35号 |
どのような町にしたかったのでしょう? |
見かけは隠居城としていますが、いざというときのための拠点にしようとしていました。小矢部川と千保川の合流地点に木町を設け、資材集積の基地として築城を始めました。近くを通っていた北国街道を町の中を通るように変えました。京都の町に倣って碁盤目状の町並みを整備しました。鋳物師を呼び寄せ金屋町に鋳物工房を開設しました。城下の防備のために、要所に寺社を配し砦としました。用水をめぐらし、防衛、防火、除雪、排水に役立てました。
鋳物(金屋町)、指物(指物屋町)、家具(檜物屋町)、魚屋(川原町)、材木・薪炭・回漕業(木町)、漆器など、様々な職種に特権を与え、産業を奨励しました。 町づくりが進み、戸数約1200戸、人口約5000人の城下町高岡が動き始めました。 |
写真は北国街道。(大法寺前から関野神社(道の突き当たり)を見る)。 北国街道は、写真左の5階建て建物の手前を左に折れて、一般に山町通りと呼ばれている道筋に続きます。 木町浦参考:95号 |
利長は二代目として理想的な人物でした・・・・前田利長参考:93号
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戦国から江戸初期にかけて生きた利長は、勢いを増してきた徳川家と父の時代から親しい豊臣家との間で家名の存続と領国の充実に力を注ぎました。中国の詩経の一節「鳳凰鳴けりかの高き岡に」からとって新しい町の名前を「高岡」に決めたそうです。鳳凰というのは架空の鳥で、徳のある天子が治めている平和で豊かな国に現れるという言い伝えがあります。高岡と名付けた利長の思いは、鳳凰が舞い降りてくれるところであってほしいということだったのでしょう。戦国の世の終焉と、前田家が治めている国の繁栄を強く願っていたものと思われます。「我死なば、即ち天下自ら統一して太平にならん」と言い残して、慶長19年(1614)、高岡城で病のため亡くなりました。53歳でした。 | 「鳳凰鳴矣干彼高岡」 鳳鳴橋柱 参考:36号 |
※次号の終わりに利長の年表を載せます。参考にしてください。