112号2009.4月発行 |
昭和12年、金屋町は「昭和通り」ができて分断された:金屋中町(手前)と金屋本町(向う側) |
築城まつり:大石曳き
開町400年記念事業
400年前の築城に思いをはせて、石垣の石を曳いてみました。
老若男女、様々なグループが参加して
公園横の桜馬場通りの約400mを
賑やかに、行列がお城へと続きました。
子供たちは野菜、反物などを運びました | 約60kgの米俵を曳くグループ | ||
一般公募の市民は重さ約1tの石を曳きました | 野球チームの青年が・・・ | ||
町内会の先輩達が・・・ | 外国の人たち、職場の仲間など20ほどの団体が参加しました | ||
高岡商工会議所青年部など市内の四青年団体のメンバーで→ | →6tの巨大な石を運びました |
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縄張り(設計)は高山右近。
総面積約23.5万平方メートルのうち、約3割が人工の水濠である。
「高岡御城景台之絵図」(利長の高岡入城3年後の年代)を参考に当時の姿を考えてみよう。
天守台:天守閣があったのかどうか定かではない。(材木蔵があったらしい)
二の丸:夫人付の家臣・鈴木権之助の屋敷があった。 門、隅櫓二つあった。
三の丸:今枝民部直恒の屋敷があった。
鍛冶丸:枡形門があったと思われる。枡形は虎口(城の出入口)に設けられた、的を迎撃するための四角い空間。この枡形の外門に高麗門、内門に櫓門が建てられているのが一般的。高岡城のことを記した「越能賀三州史」に「二階建ての城門や櫓があり、城壁の上に二重の低い垣があった」とあるので、高岡城にも枡形門があったと思われる。
貫土橋:現在の朝陽橋は築城当時、無かった。有事の際のみに使う可動式の橋(貫土橋)となっていた。 加賀藩を代表する歴史家・富田景周はその著書「越能賀三州志」の中で、城内の殿閣は前田利家が豊臣秀吉から賜った伏見の秀次遺館の良材を使って建てられたとしている。 高岡古城公園参考:たたら52号、たたら105号 |
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高岡城は利長の死去後、一国一城令により廃城となった。
城跡は、堀と土塁を残すなど城としての機能を維持しつつ、高岡町奉行の管理下に置いて、米蔵、塩蔵などを設置。明丸は火薬庫となっていた。
明治維新直後、高岡城跡は民間に払い下げられ、開墾されることになった。高岡町民の間では城跡の破壊を憂う声が多かった。
このため新川県第17大区々長(現:高岡市長)の服部嘉十郎が中心となって、公園指定を求める動きが起こった。明治8年公園指定を受けた。
造園技師、長岡安平の考えは「主として天然の美景を利用し、いたずらの人工を施さざる方針」だった。今も「野趣あふれる自然公園」はうたい文句である。
公園指定以降、様々な施設が建設され、姿を変え市民に愛されてきた。
本丸:昭和22年に本丸球場
二の丸:明治14年図書館、その横に昭和26年公会堂建設
鍛冶丸:明治13年に射水郡役所が建てられたが現在は博物館が建っている
三の丸:大正11年すり鉢型の相撲場、昭和35年相撲場を壊し、市民体育館建設
明丸:大正11年テニスコートがあったが、昭和35年動物園となった。
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