52号 2004.4月発行 |
・・・・・高山右近像(高岡古城公園大手口) 高岡城の設計者 戦国時代明石十二万石藩主だったが、キリスト教の熱心な信者であったため大名の地位を奪われた。その後26年間加賀藩に身を寄せていた。二代藩主利長が隠居城として高岡に城を築くにあたり、城のなわばり(設計)を高山右近にまかせたという。 |
高岡古城公園 | |
加賀二代藩主前田利長が築いた高岡城は、利長の死後、一国一城令により建物は壊されたが、水濠や土塁が残されていた。それを公園として整備したもので、広さは約21万uある。 春は桜、夏は緑、秋は紅葉、冬の雪、その他四季折々に美しい姿を見せてくれる。また、市民会館、博物館、体育館、動物園などがあり訪れた人々を楽しませてくれる。入場無料なのでいつでも自分の庭のように散策できるのがうれしい。 |
竜女と枡形濠 |
400年ほど前、高岡城を築いていたときの話。お城は出来上がっていくのに、掘っても掘ってもお濠の水がわいてこない。そんな話が能登の国の廻船問屋の娘お光さんの耳にはいった。高岡の城が見たいとせがまれた両親はしぶっていたが、生まれてから一度も笑ったことがない娘の願いをかなえてやったら笑うかも知れないと思い高岡へやってきた。 両親や役人のとめる間もなく、お光さんはお濠めがけて走り出し、お濠のふちでくるりと両親のほうへ振り向くと、生まれてはじめてにっこりと微笑んで「私の住む場所はここときまっておりました。お父さんお母さん今までありがとうございました。」と言い残して、お濠へ身を躍らせた。と、雷鳴鳴り響き、稲妻がつきささった地面の割れ目から水が溢れ出し、みるみるうちに濠いっぱいに水がたたえられた。一瞬、巨大な竜が姿をあらわし、水の中へ消えていった。それからというものこのお濠の水は涸れたことがない。 さて、この濠の近くに常念寺というお寺があるが、報恩講の日に必ず一人の若い娘がお参りにくる。娘の座っていたあとはいつもびっしょりぬれていたそうな。竜になった娘が両親の供養にきているのだろうか。 |
コシノヒガンザクラ | |
ソメイヨシノを中心に23種類その数2700本の桜の木があるが、中でも自慢できるのが、コシノヒガンザクラだ。はじめて発見されたのは昭和4年、桜馬場である。桜馬場とは高岡城築城と同時に付設された馬事の練習場のこと。砺波の者が献上した桜の苗木が植えられて桜の名所となっていた。昭和30年都市計画道路建設のため桜馬場が廃止されたとき、移植可能な桜はみな古城公園へ移された。
原生地とされる砺波の山中を調査した結果、雪深い山中でエドヒガンとキンマメザクラとが自然交配して誕生したのではないかと推定されている。
多数の苗木が小竹藪に植えられ、保護のもと育っている。
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服部嘉十郎のおかげ |
明治の初め、旧藩時代の権威を象徴するかのような各地の城は、次々と撤去されていく中、高岡城の跡も樹木を伐採し、開墾地として民間に払い下げることに決まり、既に入札も終えていた。高岡区長(現在の市長)の服部嘉十郎は、国が西洋諸国に見習い「公園条例」を制定したことを知り、城跡を公園として残し、町の人たちの共有物としようと考えた。関係者を説き伏せ、落札した人たちにも権利を放棄してもらうよう頼むなど、大変な苦労をした。そして明治8年に公園として民に開放された。
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古城公園の思い出 春は桜並木の道を、夏は蝉時雨の中を、秋は落葉の上を、自転車を走らせて高校へ通いました。古城公園は、小学生のころから家族や友達とよく遊びにきたもので、芝生の広場あり、木々が茂った丘あり、お濠に沿った小道ありと、様々な風景が楽しめるので好きでした。夏休みの宿題の絵は、決まってここでした。当時、動物園にいたライオンの絵を描いて賞をもらったのもなつかしい思い出です。 自分の子供の夏休みの絵も古城公園でと決めていました。あるとき昔を思い出し、子供といっしょに絵筆をにぎっていました。画用紙いっぱいに青々と葉を茂らせた木々を描きましたが、夏の陽射しをさえぎり、木々の間を抜けてきた風のあの心地よさまで表現されていたでしょうか。 |