35号 | 二上山;市定期観光バス 発行 2002.11月 |
玉くしげ 二上山に鳴く鳥の 声の恋しき時は来にけり―大伴家持 |
小矢部川と千保川の合流地点から見た二上山 |
二上山はその名のとうり、西の峰(向って左・標高258m)と東の峰(向って右・標高274m)が二つ並んだ山である。遊歩道やドライブコースが整備され、四季折々の美しい景色を楽しめる。頂上からは立山連邦、大海原の富山湾、能登半島が一望でき、眼下には小矢部川、庄川の流れや、高岡の市街地を見渡せる。 歌人の大伴家持は越中の国守として746年から5年間高岡伏木に滞在しているが、その間200余の歌を詠んだ。この中に二上山を詠んだ歌も数多く残されている。 |
守山城址 守山城は西の峰に本丸があったが、今は石垣の一部と石段などわずかにその痕跡を残すだけである。築城の起源は不明だが1370年代斯波義将の居城だったらしい、その後神保氏張の居城となり、越中に派遣された佐々成政も一時この城に入っている。1585年前田利長が入り、佐々成政が肥後国に転封された後は、越中国全域の首都となった。 守山城は能登、加賀国境の動勢、呉羽山以東の動きを早急に知る位置を占めるばかりか、砺波、射水、氷見の穀倉地帯と、小矢部川、庄川の水運、ならびに伏木、放生津の両港を掌握していた。史料によると、文禄5年(1596)には、檜物(薄板曲物)座や、天秤(貨幣両替)座があり、商い舟も行き来していたようだ。 忙しい利長に代わり、義兄の前田長種が守山城に入り、利長の弟利常(後の三代藩主)を養育しつつ、城代として領内の治政を統括していた。高岡城築城にともない城下の人々が移出して守山城は衰退した。 |
二上山のハイキング(写真は二上青少年の家野外炊飯場) 東の峰が標高274mの二上山の頂上だが、ここまで車では行けない。駐車場前にある家持像の横から続いている長い石段を10分ほど登っていくとたどり着く。狭い所で、祠がひっそりと建っている。家持像まで引き返してくると、家持像が見下ろしている方向に山道がある。ふもとの二上青少年の家へ続くハイキングコースで、所要時間30分ほどである。 子供が小学生のころ、それぞれの「親子のつどい」で色々な山道を歩いた。二上青少年の家を中心に、山中でオリエンテーリングを楽しんだこともあった。ゴールへたどり着いたときは充実感でいっぱいだった。 2番目の子のときは、城光寺の滝をみてその脇から登って頂上近くの展望台へ出るコースを歩いた。少しきついコースだったが、子供達と所々でクイズをしながら歩くのは楽しかった。あそこに滝があったことを初めて知った。暑い夏の日だったがとても涼しく、心が癒される場所だった。 3番目の子のときは、二上神社の裏手の方から登って頂上をめざした。オートキャンプ場でバーベキューを楽しんだ。 |
高岡地域地場産業センター;ショッピング 16:10〜16:30
高岡とその周辺の地域でつくられたクラフト商品やお土産など紹介、販売している。高岡地域の地場産品には、長い歴史の中で培われ、生活に密着しながら成長してきた工芸品が多く、その製品は伝統的技術・技法による独特の味わいを醸し出している。 ※高岡市観光パンフレットより |
なでしこの部屋
二上山の思い出 二上山にドライブコース万葉ラインが整備された頃、父の運転する車でよく出かけたものです。私にとって二上山は歩いて登る山と言うより、ドライブする山でした。くねくねした道を南へ北へとジグザグに走って行くと、木々の間から高岡の街と蛇行する小矢部川が見えてきます。守山城址の展望台からは高岡の街を眼下にして、呉羽山、立山連邦、砺波平野から五箇山の方まで一望できます。この景色がすべて自分の手中にあって、下から見上げられている特別な場所にいる感じがしてきます。ここに城を築こうとした権力者の気持ちがわかるような気がします。 市の広報で知って、「二上山を歩く」会に子供を連れて参加したことがあります。個人ではなかなか歩けませんので良い機会だ思い参加しました。ナチュラリストの方のお話を聞きながら頂上まで歩き、色々な発見があって勉強になりました。緑の木々の中を一歩一歩土を踏みしめて登っていると、様々の小鳥の鳴き声が楽しめました。晴れて気持ちの良い日に二上山を眺めると、また歩いてみたくなります。 |