113号2009.5月発行

金屋上町通り:映画「8月のクリスマス」のロケ地



高岡御車山祭・町衆の400年




5月1日、今年は雨の心配なく、高岡御車山祭りが執り行われました。
華やかな桃山様式を帯びた山車が、町なかを華麗に悠然と曳き回されました。


高岡御車山祭りは、祭礼が無形、山車が有形の国重要民俗文化財に指定されています。

天正16年(1588)、豊臣秀吉が「鳳輦の車」を、前田利家に与えました。
鳳輦の車は、後陽成天皇と正親町上皇を、京都の聚楽第に迎える時に使用されたものです。
それが息子である利長に伝わり、高岡開町時に高岡町民に与えました。
改装して、
高岡関野神社の祭礼日に曳き回されるようになりました。
以来今日まで継承されているものです。

利長が高岡城にいた慶長14〜19(1609〜1614)の間に、
この曳山を幾度か目にしています。
高岡関野神社蔵の「御車山文書」で「山もよく候」と称賛しています。


木舟町の御車山
鉾留は胡蝶
心柱は大黒様
貰い受けた車を改装し、7基そろえて高岡関野神社祭礼の日に巡行しています。 通町、御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町、一番街通り(一番町、三番町、源平町の三町で所有)、二番町の山車がこの順に巡行し、坂下町の「獅子」が先導しています。
6基は四輪、二番街の山車だけ大きな二輪
です。
参考:たたら41号



山町
御車山を所有し、祭りを行っている町を「山町」と呼んでいます。

利長が高岡城築城のおり、北国街道沿いに商人の街を整備しました。そしてこの辺りの町民に秀吉から賜った車を与えたのでした。
しかし高岡城は、利長死去の翌年、一国一城令により廃城となりました。武士が金沢へ引き上げ、高岡の人口は急減し、衰退していきました。
後を継いだ利常は町人の転出を禁止し、商工業の特権を用意して誘致に取り組み、高岡を再生させました。
山町は、江戸時代は高岡の中心街でした。

山町の商人は布や、綿、米の取引で富を築きました。豪商は明治に入ると銀行や紡績会社、コメ市場、鉄道会社を手がけ、問屋街も栄えて商工業都市高岡の繁栄をもたらしました。

その財力で、高岡御車山には、金工、漆工など高岡が誇る工芸技術が集積されています。
車輪は黒色の漆塗りが美しく、梅鉢や竜、唐草模様の飾り金具が華やかです。
高岡関野神社の例大祭の日に曳行される御車山は本来宗教的な行事でしたが、町人文化の成熟に伴っての誇りや勢いを感じます。
独自に御車山の祭礼を執行、維持して、自らの権利を堂々と表現してきた歴史があります。

明治33年の大火の後、防火に優れた土蔵造りの建物が造られ、特徴ある町並みとなっていますが、これも財力があったからできたことです。平成12年に国重要伝統的建造物郡保存地区に選定されました。
利常による高岡の商工業優遇施策に乗って発展し、その助力と心意気が絢爛豪華な御車山を支えてきたと言えます。

山町筋
巡行する御車山

高岡関野神社
御車山の源流
御車山の中央にそびえる心柱とその先端の鉾留は神が降臨するための目印であり、花笠は祭壇に飾られた花々、そして人形は心柱を伝って降りる神の形式と言われています。
古代の日本人は臨時の祭壇(築山)に神を迎えて一年の豊作を祈願しました。毎年4月23日、二上射水神社で行われる築山行事にこの古代信仰の形態を見ることができます。御車山は、この築山に車輪をつけて移動できるようにしたものであり、築山行事から発展したものと考えられています。

高岡御車山祭開催の前に行われる与四兵衛祭
安政4年(1775年)津幡屋与四兵衛は他町が類似の曳山を造ったことで講義に行き、捕らえられ獄死した事件がありました。高岡の山町では御車山の由緒格式を守った義人として祀っています。
4月3日に、高岡関野神社境内の攝社前で与四兵衛祭が挙行されます。そのとき山町間の打合せで御車山の詳細が決定されます。
また、高岡御車山祭当時は「弥眞進大人命(まごころいやすすめうしのみこと)}として崇められている津幡屋与四兵衛旧住宅前で、必ず所望が行われます。
所望・・・特別の功績のあった人の家や山役員宅前で、御車山を玄関に向け神楽を奏すること。
 
山町のイベント案内
高岡の天神様・・・・・高岡独特の天神信仰を山町筋で紹介しています・・・・たたら85号
山町土蔵造りフェスタ土蔵造りの町並みを楽しんでもらうイベントです・・・・・たたら80号
山町のひな祭り・・・・山町筋の商店や民家で昔から伝わるお雛様を飾ります:たたら39号