114号2009.6月発行

御印祭の金屋中町通り



400年の鋳物の炎これからも

6月19日、今年も金屋町で、御印祭前夜祭が 盛大に執り行われました。
鋳物作業唄の弥栄節に合わせて民謡踊りが町を流し、
伝統産業を築いてきた鋳物師の心意気を伝えました。

石畳みの通りを、金屋住民をはじめ、近くの保育園児、
小中学校生徒、高岡西高校生有志、伝統産業青年会、民謡団体などが踊りました。

金屋緑地公園の特設舞台では弥栄節保存会、奉納踊りの児童、民謡団体の踊りが披露されました。
約1300人の踊り手が参加し、格子戸の町並みは、大勢の見物客で賑わいました。

20日午前は金屋町公民館にお迎えした神様の前で厳粛に神事が行われ、
利長公の恩に感謝し、先人の労を忍び、鋳物産業の発展を祈願しました。

20日午後は利長公墓所で町内の小学校高学年生による奉納踊りがありました。
こうして子供たちに祭りが染み込んでいきます。
   

400年の歴史ある御印祭
加賀藩二代藩主前田利長公は高岡開町から2年後の慶長16年(1611)、砺波郡西部金屋(現;高岡市戸出西部金屋)の鋳物師を高岡に招きました。彼らは由緒ある「河内鋳物師」の流れをくむといわれています。
城下町を火災から守るため千保川の向こう岸(左岸)に土地を与えて仕事をさせました。
税金や借地料、労役などの諸役を免除し、通行の自由、山林木材伐採許可などの特権を与え、手厚く保護しました。
利長公の死後、鋳物師たちがその御恩に感謝し、遺徳を忍んで命日にお参りしていたことから続いているお祭りです。当初は利長公の新書(御印)が祀られていたので、御印祭と言ったようです。命日である旧暦の5月20日を新暦に直して6月20日に行っています。今日では前田利長公命をはじめ4柱の御神体を金屋町公民館にお招きして、神事が行われます。
 
先人の心を伝える弥栄節(やがえぶし、又はやがえふ)
鋳物作業の過程で生まれた歌で、明治の初めまで、歌い継がれてきました。昔は、地金を溶かす時に「たたら」とうわれる足踏み式の大きなふいごを使い、炉の中へ強い風を送り炎の温度を上げ、地金を溶かしていました。「たたら」踏みの仕事は単調ですが、一昼夜踏み続けるという過酷な労働でした。皆の調子を合せ、元気づけるために歌われ出したのが弥栄節です。
機械化されて、「たたら」が無くなり、弥栄節も歌われなくなりました。
無くしてはいけないと、故飛見丈繁さんが中心となり、歌いやすいものに編曲し、親しみやすくするため踊りを振り付けて、伝承されています。御印祭前夜祭に披露しています。
金屋の子供たちはよちよち歩きのころから見よう見まねで踊りに参加します。小学高学年になると、神様の前で踊りを奉納する大役が廻ってきます。こうして先人の心を次代へ伝えるべく努力をしています。
金屋町の歴史
慶長16年(1611)利長が、仁安の御綸旨を所有している河内丹南ゆかりの鋳物師を、高岡金屋へ招いて仕事をさせる

万治2年(1659)金屋の鋳物師が安居寺(南砺市)の鰐口を鋳造

元文2年(1737)高岡塩釜が奥能登に進出し、中居(石川県穴水町)鋳物師に脅威を与える。藩命により宝暦(1751)以降、高岡鋳物師が塩釜を製作

宝暦(1751)頃より高岡銅器の生産

天宝(1830)頃蝦夷地(北海道)でにしん釜の販路を開拓。飛ぶよう売れた

嘉永(1853)から明治初期  高岡銅器商人が横浜・神戸に進出し外国に輸出

明治元年(1868)頃藩が無くなり職を失った金沢の職人が仕事を求めて高岡に来る

明治6年(1873)ウィーン万国博覧会に高岡銅器を出品し受賞。これ以降、万博・内国博などに出品し多数受賞している

明治13年(1880)高岡鋳物師が、日本初の屋外大型ブロンズ象の日本武尊象を金沢兼六園で製作

昭和13年(1938)から20年まで戦争のため高岡銅器は壊滅的状況

昭和21年(1946)アルミ製鍋釜の売上好調

昭和50年(1975)高岡銅器が通産大臣から「伝統工芸品」の産地指定を受ける

平成2年(1990)高岡銅器販売額が374.5億円を記録

平成19年(2009)鋳物資料館開館

仁安の御綸旨(下)と箱

利長から拝領した土地

金屋鋳物師が造った

近代鋳物の象徴キュポラ

鋳物資料館
 安の御綸旨とは、鋳物師として仕事をすることを天皇が認め、税の免除や特権を保証した文書です。高岡金屋の鋳物師たちは下賜されたこの書簡を、代々大切に保管してきました。今は金屋町の秘宝です。写本は鋳物資料館で見ることができます。

 がて北国筋における鋳物業の頭役を勤める力をもつようになりました。江戸中期より新しい技術や素材の研究・開発にも力を注ぎ、さらに販路の拡大を求めるなど不断の努力を重ねてきました。

 治維新の変革期を迎えた頃、職を失った加賀藩の職人が金沢から仕事を求めて大勢高岡へ来ました。各種博覧会で受賞し、多くの製品が輸出されました。こうして銅器鋳物産業の基盤を築いていったのです。

 二次世界大戦中は壊滅的状態でしたが、被爆しなかった高岡は早くから工場が稼動し、繁盛していきました。

昭和30年代まで、通りに面した家々の裏にそれぞれ鋳物工場があって、金屋は騒々しい町でした。同40年代ごろから機械化、交通の便、公害の問題などで、ほとんどの工場は郊外へ移っていきました。メイン通りに面した家々の昔ながらの千本格子は、美しい景観を生み出していて、観光に訪れた人々の心を癒しています。

※参考号:たたら74号たたら102号たたら90号たたら89号