39号 灯りをつけましょぼんぼりに
発行2003.3月

山町筋ひなまつり

2月8日(土)・9日(日)
主催:土蔵造りのある山町筋まちづくり協議会

土蔵造りの菅野家、土蔵造りのまち資料館、太田家をメイン会場として、通りに面した商家も店の一角にお雛様を飾り、町全体がギャラリーとなりました。江戸時代から昭和初期の貴重で珍しい雛人形が勢ぞろいして、しばし少女の頃に戻ったような気分になりました。琴の演奏や茶席なども設けられ、楽しませてもらいました。


写真上から @ 江戸末期の作
桃の節句に合わせたお茶道具が趣を添えている。
        A 江戸末期の作
面長な顔や綿を入れてふくらませた袴など、江戸中期に流行した「享保びな」の特徴を備えている。
        B 明治40年頃の作
京都の250年続く老舗「丸平大木人形店」のもので、この呉服店店主のお母さんのものだったそうだ。
        C 昭和8年頃の作
大正から昭和初期に流行した御殿雛。豪華な寝殿の中にお雛様が飾ってある。
        D 江戸中期の作
幕府御用人形師、雛屋次郎左衛門の作。武家の間で流行した「次郎左衛門びな」

 


山町筋とは
御車山を所蔵している町で旧北陸道筋に土蔵造りの家が建ち並び、
重要伝統的建造物郡保存地区となっている辺りのこと。
その昔、高岡城が築かれたころには武士の屋敷が並んでいたらしいが、
一国一城令で高岡城が廃城になった後、
当時の藩主前田利常が奨励して商業の中心として繁栄してきた。
明治の大火の後、防火に優れた土蔵造りの家が建てられた。

私が子供のころ、雛壇のまわりに家中の人形や、お祝いに頂いたお人形を飾りとても賑やかでした。その中でお気に入りだったのが「じょうとんば」の人形です。嫁に来るとき持ってきて、毎年娘のお雛様に飾っています。「じょうとんば」は漢字で書くと「尉と姥」(じょうとうば)となります。

46年経った人形です。私達夫婦もこうなりたいものです。
尉と姥のいわれ
その昔、高砂神社(兵庫県高砂市)の境内に一本の根から雌雄の幹が左右に分かれた松が生え、「尉と姥」に姿を変えたイザナギ、イザナミの二神が現れ夫婦の在り方を説きました。以後この木を「相生の霊松」と呼び、この二神を縁結びと夫婦和合の象徴として信仰するようになりました。
結婚式に欠かせない謡曲「高砂」の物語は、阿蘇の神主友成が上京の途中に高砂の浦に立ち寄った際、相生の霊松の精である老人夫婦と出会うところから始まり、夫婦愛、長寿の理想をあらわしたものです。
※高砂市のホームページより

ひな祭の思い出
5月生まれの私は初節句のころには伝え歩きができるようになっていました。雛壇が伝って行く道筋になっていて、御供えしてあった大きなおもちに手をついて伝って行っては、一日中家の中を回っていたそうです。白いおもちが手垢で少し黒くなっていたと聞かされ、「汚い」と私が言うと、「な―ん(いいえ)、初節句だから娘のしたことはなんでも嬉しかった」と、目を細めて言いました。
4,5歳のころは、お雛様飾りの手伝いをしたいのにお人形には触らせてもらえず、お道具や造花の橘と桜の木を飾るのが役目でした。たんすの引出しを開けたり閉めたり、映りの悪い鏡をのぞきこんだり、御膳にお椀を並べて食べるまねをしたり、と邪魔をしていたのでした。夕ご飯を食べたあと座敷の雛壇の前に一人座り、あれこれ想像しているのが楽しい時間でした。お雛様とお内裏様が、御殿の中から出て階段を降りてこられると、5人囃子の音楽に合わせて3人官女の踊りが始まるのだと、空想が広がりました。
御殿飾りは夢があって楽しいのですが、飾りつけの大変さを思い、娘のお雛様を買ってもらうときはびょうぶでお願いしました。