高岡市
一国一城令
利長の死去後、幕府の一国一城令により高岡は廃城となってしまい、武士が金沢へ引き上げ、町人も転出したことで町は急速にさびれ始めました。
そんな中、三代の前田利常(としつね)は、利長の築いた高岡の衰退を止めるべく、高岡町人の他所転出を禁じました。
そして、米や麻布の集散地としたり、米蔵・塩蔵や問屋を設置するなどの振興策によって商工業都市への転換を図ったのです。
これが見事に成功し、高岡の産業は発展していきました。
高岡開町
高岡の城下町には家臣団の他に、土地を無償で与えるなどの施策によって、各地から商人や職人が集められました。
1611年に高岡へ招かれた7人の鋳物師(いもじ)は、釘や金具といった町づくりに必要な道具の他、鍋や釜などの製造販売を独占的に行うなど、集まった人々が商工業の基礎を築きました。
鎌倉・室町時代
武士が力で領地を奪い合う時代となり、高岡周辺地域の支配者も移り変わって行きます。
鎌倉時代には、北条氏の流れをくむ名越(なごえ)氏が越中守護職にありましたが、その後は桃井(ももい)氏、斯波(しば)氏などが守護職として越中を治めます。桃井氏の時代には二上山に守山城が築城されたと云われています。
室町時代には守護代として神保(じんぼ)氏が越中を治めるようになりましたが、やがて上杉謙信や織田信長との争いに巻き込まれます。
信長死後は、一時期佐々成政(さっさなりまさ)が越中を治めるものの、1585年、羽柴秀吉の大軍が侵攻して勝利し、越中の大部分は前田利長(としなが)に与えられることになりました。
源平の時代
平安時代末期に武士が台頭し、全国各地で争いが起こる中、高岡の地にもその影響が及びます。
1183年、木曽義仲(きそよしなか)は越中国府で兵をまとめ、俱利伽羅峠(くりからとうげ)にて平維盛(たいらのこれもり)の軍勢を打ち取りました。。
また平氏滅亡後は、奥州に向かう源義経が高岡市域を通ったと伝えられています。
義経記(ぎけいき)にある「如意の渡」(にょいのわたし)で弁慶が義経を打ち据える話しは、後に能「安宅」(あたか)、歌舞伎「勧進帳」等でも演じられました。