クイズで巡る
令和元年のイベント「ミラレ金屋町」でおこなった、探してミラレ金屋町クイズラリーの問題です。
富山大学芸術文化学部の学生さんと観光ボランティアガイド町なみを考える藤グループが作りました。
金屋町をクイズでを解きながら、まち歩きをしてみませんか!
弘化4年(1848)の地図を見ながら散策、問題に答えて、全て解き終わったら選択肢を並び替えてキーワードにしよう。
それぞれの場所に、ヒントがあります。
壱:鳳鳴橋
「高岡」という地名は、『詩経』という中国最古の雌が由来となっています。その漢詩とは次のうちどれでしょう。
(あ)我登山高爲成岡故 (い)鳳凰鳴矣于彼高岡
弐:立川家
金屋町周辺に建つほとんどの家は瓦の屋根ですが、立川家の屋根には、瓦でないあるものが使われています。それは何でしょう。
(れ)石 (も)茅 (ん)竹
参:旧南部鋳造所のキュポラと煙突
旧南部鋳造所のキュポラ及び煙突は大正13年(1924)、鋳物の材料となる地金を溶かすための溶鉱炉として建設され、いつまで稼働していたでしょうか。
(銅)昭和45年 (錫)昭和28年 (金)平成12年
四:金屋町は元々帯状の町でした。しかし近代化の整備の際、大きな道路により2つに分かれてまいました。その道路の別名は次のうちどれでしょう。
(な)大正通り (に)昭和通り (ぬ)平成通り
五・六:高岡市鋳物資料館
高岡市鋳物資料館の第2展示室には、昔鋳物製造の工程の中で使われた”たたら“という道具があります。これは何をするために使うものでしょうか。
(も)風を送る (ず)鋳物を冷やす (く)純粋な銅を作る
高岡城下から千保川の対岸に金屋町がある理由はなぜですか。
(だ)鋳物の匂い (で)防火のため (ば)利長が金属アレルギーだった
七:石畳通りにはところどころに銅板が埋め込まれています。
星形の銅板の形は次のうちどれでしょう(大寺幸八郎商店さん 近くと ポケットパーク 近くにあります)
(来)北斗七星 (留)オリオン座 (笑)カシオペア座
八:ポケットパーク
現在公園となっているポケットパークですが、元々は、町屋でした。その地下には木造家屋が建ち並ぶ金屋町に必要ななにがあるでしょう。
(た)家を直すための木材 (ち)瓦の窯 (つ)防火水槽
九:鋳物工房利三郎
鋳物工房利三郎は初代利三郎が双型鋳物を始めた老舗です。この利三郎の創業はいつでしょう。
(壁)昭和元年 (屋)明治元年 (床)平成元年
十:金屋緑地公園
金屋緑地公園には、落下型の噴水があります。金屋町に関するあるものがモチーフになっているのですが、それは次のうちどれでしょう。
(ら)千本格子 (り)金属を流し込む様子 (る)千保川の流れ
探してミラレ 金屋町クイズラリー 解説
(い)鳳凰鳴矣于彼高岡
高岡の地名は「詩経」の一節「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)」が由来で、加賀藩二代藩主前田利長公が築城と開町に際して名付けました。
また「鳳凰橋」の名称もこの漢詩が由来しており、橋中央区部には伝説の鳥である鳳凰のオブジェが置かれています。
前記の漢詩の続き「青桐生矣于彼朝陽(梧桐生ず彼の朝陽に)」から、欄干(橋の手すり)上部には梧桐(あおぎり)のデザイン、また歩道路面には鳳凰の好物である竹の模様をあしらった鋳物板が組み込まれています。
川上の「鳳」が雄、川下の「凰」が雌です。
(れ)石
元々江戸時代の藩政時代は石置きの屋根が主流でした。
しかし、大正以降は瓦が主流となり屋根のみ葺き替えられた建物も多いです。
低い傾斜の屋根の家は石置きが名残だそうです。
江戸時代初期は、火事で建物が焼けた時、瓦が崩れ落ちたことによって逃げ遅れてしまう犠牲者が多く出ました。石で屋根を押さえていました。
火消制度と防火構造として瓦葺き屋根が奨励されるようになってからは、瓦葺き屋根が普及していきました。
(金)平成12年
新式溶鉱炉「キュポラ」は地金を溶解するために建てられた、レンガ積みの高い煙突を持つ建造物です。
近代化以前の大型鋳物は、多数の板人(いたど)を踏んで炉に風を送り、木炭を燃やして溶鉄や溶銅を得ていました。
この大変な重労働から人々を解放した設備が、新式溶鉱炉「キュポラ」です。
明治末期には多くのキュポラが建造されたと言われていますが、そのほとんどは取り壊されてしまいました。
富山県で唯一残る旧南部鋳造所のキュポラ及び煙突は、平成12年(2000)2月まで稼働し、平成13年(2001)に国の登録有形文化財に登録されました。
(に)昭和通り
昭和通りは普通の道ではありません。大正末期かた昭和初期にかけて、国力増強のために全国的に都市計画が進められました。
昭和8年頃の高岡市都市計画事業の際に昭和通りは施工計画され、翌年には着工、昭和11年に開通しました。
片原町交差点が起点である昭和通りは、商業の山町筋と工芸の金屋町を結ぶ高岡市近代化のシンボルです。
同じく都市計画事業の際に開通した高岡伏木線と共に、高岡市の発展・拡大のきっかけとなりました。
元々は家屋が建つ場所に作られた昭和通りですが、住民たちは高岡の発展のために請願書を書き、道路を誘致しました。
昭和通り沿いの金屋町の町屋や山町筋の家屋を観察してみてください。
昭和9年の都市計画事業工事以前に建てられた昭和通り沿いの建が、工事のために土地を削り取られている様子が現在でも見られます。
(も)風を送る
たたらとは、人力で動く大型の送風機です。
鋳物は溶かした金属を土で作った鋳型に流し込んで造形するので、1000℃を超える高温で金属を溶かさなければいけません。
溶鉱炉の中で燃料をよく燃やすための送風設備として、電動送風機が無かった時代に使われていたのがたたらです。
たたらを踏むのは単純作業ですが大勢でリズムを保ったまま踏む必要があり、また昔の金属では、夜8時から朝6時までその作業が行われていました。
疲れる心身を元気づけ、足踏みを揃えるために自然に唄われ出したのが「弥栄節(やがえふ)」です。
歌詞や節回しを改良し、振付を加えたものが、現在では金屋町で6月に行われる御印祭で演じられています。
(で)防火のため
慶長14年(1609)の高岡開町の際に前田利長公が鋳物師7人を招き、鋳物づくりを行わせたことが金屋町の始まりと言われています。
鋳物の材料となる金属を溶かすためには、火が必要不可欠です。
万が一火事が起きても城下町には燃え広がらないように、高岡城(高岡古城公園)から見て千保川の対岸に金屋町は置かれました。
皮肉にも市の6割りを焼失した1900年(明治33年)の高岡火災で延焼をのがれました。
また鋳物の原料である鉄・銅・砂・木炭は日本各地から買取、船で伏木港に集積されました。
これら鋳物用原材料の水路輸送を可能にしました。
(来)北斗七星
金屋町の石畳は、平成元年~4年(1989~1992)に路面整備事業の際に作られました。
石畳の中に埋め込まれた銅板は、高岡市が金屋町まちづくり協議会の要望を受けて設置したものです。
星形の銅板は、前田利長公が招いた7人の鋳物師にちなんで、北斗七星型に配置されました。
他にも石畳通りには白色の石の停止線や、ハート型の小さな石や銅板も埋め込まれています。
(つ)防火水槽
金屋町通りの中程にあるポケットパークは、町の人はもちろん通りすがりの人々の憩いの場として親しまれていますが、実はその地下には防火水槽があります。
現在でも格子造りの古い家が建ち並び、昔懐かしい雰囲気の風情ある金屋町は2012年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
多くの伝統的な木造家屋が残る金屋町の防火対策として、ポケットパークと防火水槽が備えられました。
(屋)明治元年
鋳物工房利三郎は初代利三郎が双型鋳物製法を始めた老舗の鋳物工場で、明治元年に創業されました。
双型鋳造法とはもっとも古い鋳物の技術で、左右対称の鋳物の原型を半分ずつ砂で型取り、左右の砂型を合わせてできた隙間に溶かした金属を流し込む鋳造法です。
円筒形や円錐形の火鉢や寺院にある梵鐘などの製法に用いられます。
利三郎さんでは、風鈴・ペーパーウエイト・箸置き・マグネットを錫で作る鋳物体験ができます。
(ら)千本格子
金屋緑地公園にある落下型の噴水は、金屋町の町屋の軒先に並ぶ千本格子がモチーフとなっています。
また、噴水周辺は前田家の家紋である「梅鉢」がかたどられています。
格子は見た目の美しさだけでなく、風通しと採光の機能を持ち合わせており、金屋町の町屋の多くには千本格子が用いられています。
日中は、 戸や障子を開けることで、家の中に風や光を取り入れていました。
金屋町では千本格子を「さまのこ」と呼んでいます。
現在でも綺麗な形を保つ「さまのこ」と石畳が相まって、風情ある昔懐かしい町並みが作り出されています。