高岡の城下町の発展のため、前田利長公は、慶長16年(1611)に砺波郡の西部金屋の鋳物師たちに命じて仕事を始めさせました。
防火を考えて、千保川の左岸に住まわせ、これが今日まで続く金屋町のはじまりになりました。
鋳物づくりでは、最初は鉄で鍋・釜などの生活用具、すきやくわなどの農具類がつくられていましたが、次第に香炉・花瓶・火鉢・仏具などの文化的な品物の需要が高まり、装飾に富んだ製品が作られました。
銅器製造が盛んになると、全国各地に販路を確保し、海外貿易にも進出していきました。
高岡の城下町の発展のため、前田利長公は、慶長16年(1611)に砺波郡の西部金屋の鋳物師たちに命じて仕事を始めさせました。
防火を考えて、千保川の左岸に住まわせ、これが今日まで続く金屋町のはじまりになりました。
鋳物づくりでは、最初は鉄で鍋・釜などの生活用具、すきやくわなどの農具類がつくられていましたが、次第に香炉・花瓶・火鉢・仏具などの文化的な品物の需要が高まり、装飾に富んだ製品が作られました。
銅器製造が盛んになると、全国各地に販路を確保し、海外貿易にも進出していきました。
高岡鋳物発祥の地である金屋町には、400年にわたる鋳物産業の歴史を背景に、由緒ある古文書や初期の鋳造技術を知ることのできる鋳物製品、多種多様な造型・鋳造道具など、数多くの資料が現存している。
高岡市鋳物資料館は、これらの貴重な資料を収集・展示し、高岡鋳物の歴史と伝統を紹介する町の小さな博物館である。
平成19年(2007)開館。平成21年(2009)象嵌師で人間国宝の金森映井智氏の遺品道具類が大量に寄贈された。
平成23年(2011)1月、収蔵品1,561点が国有形民俗文化財に登録された。
能登穴水の中居に、金屋町と同じく河内丹南を祖先とする鋳物師集団が少なくとも平安時代から住んでいて、色々な鋳物製品を作っていた。
特に、加賀前田家三代当主前田利常公の時代には、能登における製塩事業を藩が管理するようになり、中居産の塩釜を藩が買い上げて所有し、藩が製塩業者に貸し付けるなど、加賀藩の保護を受けて栄えていた。
ところがそこへ高岡産の塩釜が進出していくと、価格と熱効率で高岡産が優位に立ち、中居の塩釜を衰退させてしまった。
中居では、大正13年(1924)にたたらの火が完全に消えてしまった。今は鋳物資料館(能登中居鋳物館)がある。
明治30年(1897)から昭和初期をピークとしてニシン釜が大量に作られた。
北海道で漁獲された大量のニシンを材料にニシン肥料(〆粕)を作り、北前船で内地へ運んだが、そのニシン肥料を作るためのニシン釜(大釜)を高岡で作り、北前船で運んだ。
ニシンのお陰で北海道には、ニシン御殿が建ち、金屋町にはニシン釜御殿が建ったともいえよう。
なお天保年間(1830~43)に蝦夷地(北海道)へ渡航し、初めてニシン釜の販路を開拓したのは喜多万右衛門(現:釜万鋳工株式会社)だったそうです。
産卵のため沿岸に群れをなしてやってくる春告げ魚のニシンを大きな定置網に追い込んで捕獲する。獲ったニシンを浜に揚げて、まず数の子や白子を取り置き、干しニシンにするもの以外は、大釜で煮て、角胴(明治後期以降は丸胴)という圧搾機で魚油を絞り、その残り粕を乾燥させると貴重な魚肥となる。 取った魚の全部を使える効率の良い漁業だった。