115号 2009.7月発行

野菜売りのおばちゃんと:金屋東町



―――――加賀百万石を支えたお百姓さん―――――
加賀藩の石高は当初120万石だったものが江戸時代おわりになると170万石となり
その半分は越中産でした
高岡の南には穀倉地帯が広がり、良質な米が多く収穫されました
越中農民が苦労して働いた努力と、開拓意志がなかったら
「加賀百万石の富」自体が存在しなかったことでしょう

下の写真は
坂下町通りで、昭和55年から続く「たかおか朝市」の様子です
4月から11月の第2、第4日曜日に、午前5時半から開いています
青果、花、干物、衣類、雑貨など約90店が開店し、賑わいます


私が住んでいる金屋町へも、長慶寺、四谷の方から、リヤカーを引いて野菜を売りに来られます。
新鮮な野菜はやはりスーパーのものとは味が違います。
近所の奥さん方があつまり話に花さくこともあり、楽しいものです。
先輩の主婦の皆さんの話を聞いて、料理のレパートリーもひろがりますし、
ちょっとしたコツを教えてもらったりもしました。
けれど、最近仕事が忙しくなり、野菜を買う時間を作れなくなりました。

利長が町を開いたころは、砺波野は大きな河が流れていて、大雨のたびにあふれたり、川筋が変わったりして、安定した稲作作りができませんでした。
後を継いだ利常は川筋を変え、堤防を造成する工事を実施しました。洪水から、造成中の瑞龍寺を護るためでもあり、砺波平野全域を水害から護り、旧河道筋廃川地の新田開発を進めるためでした。長い年月をかけて完成した堤防には、補強用の松が植えられました。
 

越中は加賀藩の検地法の特例を受けました。他より広い面積でも年貢供出量は同じで、作ればつくるほど農民が年貢を出したあとに手元に残るコメが増える環境を整え、新田開発を誘導しました。

 
さらに、利常は改作法を取り入れました。
まず、領内の各村ごとにコメの草高(標準収穫量)と、免(年貢率)を設定しました。そして、優れた農民を「十村(とむら)」という地方官僚に取立て農政を担当させました。
そのために検地を行い、村ごとの草高を把握しました。免は一村平均で統一し、年ごとの豊作、凶作に関係なく税率を変えないようにしました。
また、年貢納入は一村内全百姓の連帯責任で請け負わせ、侍代官による年貢徴収を厳禁としました。
こうして、百姓代官である十村制度を中核とし地方支配機構や救民制度の充実を目指したのです。
 
 
その結果、農民は改作法で、家臣による強圧的な搾取から解放された一方、家臣はサラリーマン的な存在となりましたが、士農の抗争は消滅し、生活も安定しました。
 
高岡城跡をはじめ、各地に藩の蔵が作られ、コメ商人が高岡に集まりました。蔵に集められたコメは馬の背に乗せられ、川の舟運を利用して、伏木の港から大阪などへ運ばれて行きました。高岡はコメのほか、綿や布、魚、塩の流通拠点としても栄え、求心力が高まり繁盛したのでした。

左の写真の下2枚は昨年(2008)のものです。収穫されたコメを戸出から吉久のお蔵まで運んだ昔の様子を、再現したイベントです。


アグリピア高岡
農業についての技術情報を提供するとともに、市民が楽しく農産物にふれあう事業を行い、地域農業の振興と地域の活性化を図っています。

 大仏様
高岡大仏は、1221年ころ摂津国の源義勝が越中に移り、二上山麓に1丈6尺(約5m)の木造大仏を造営したのが始まりです。その後、1609年に前田利長公が今の大手町に移されました。何度も焼失、再建を繰り返していましたが、1900年高岡大火で焼失したあと、燃えることのない大仏を望む声があがりました。380年の伝統を誇る高岡鋳物師の手によって再建されることになりました。古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で鋳造から着色に至るすべての工程を高岡の工人、職人たちの手で行った。昭和8年(1933)開眼式が盛大に行われました。
「銅器のまち」「ものづくりのまち」高岡のシンボルとして親しまれています。