No.006
御印祭
6月19日午後6時、児童による御印太鼓の演奏が始まりました。金屋緑地公園へ人が集まって来ます。御神体の行列が有礒正八幡宮から神宿の公民館へと向かいます。7時からの第一部弥栄節踊りに出演する地元の小中学生が姿を見せ始めました。女の子は浴衣を着て、男の子は法被姿に鉢巻きをきりりとしめています。おとうさんおかあさん、おじいちゃんおばあちゃんが孫の踊りを見ようと場所を確保しています。二部に出演する民謡団体の方もあでやかな着物で来られました。御印太鼓が終わった舞台では、弥栄節踊りの準備に取り掛かります。弥栄節保存会のメンバーや奉納踊りの小学高学年生、民謡団体の方々の踊りが披露されます。舞台のそばで、囃子方の音合わせが始まっています。三味線、太鼓、胡弓、鉦が、ビビンベベンベン、ドンドコドン、キュイーンキュウキュウ、カーンカン・・・・。

陽が沈み、あたりが暗くなり、金屋町の石畳通りに面した家々の提灯に灯りがともりました。さあ前夜祭の本番です。昨年まで踊っていた私は今年初めて三味線を弾きました。緊張しましたが楽しかったです。

この祭りは、加賀藩二代藩主前田利長公の遺徳を偲び、感謝の意と繁栄の願いを込めて400年近く続いているものです。利長公は高岡開町にあたり、鋳物師を呼び寄せて土地、工場を与えて金屋町を開きました。金屋鋳物師たちは、税金や借地料、労役などの諸役免除され、通行の自由山材木材伐採許可などの特権を与えられました。鋳物師たちは、利長公亡きあとも命日にその遺徳を偲びお参りしていたそうです。


御印祭りで踊られる弥栄節は、厳しい鋳物作業の中から生まれた唄です。「たたら」と呼ばれる大きな送風機で、溶解炉の中に風(酸素)を送り込み、鉄を溶かしたのです。畳3枚ほどの大きさの板の両端に3人ずつ並び、シーソーのように交互に踏んで風を送り込む作業が一昼夜も続けられました。疲れた体を元気付けるため、またみんなの調子を合わせるために唄われるようになったのが弥栄節です。近代化が進み、「たたら」が使われなくなると、弥栄節も唄われなくなりました。しかし、鋳物師の思いを後世に伝えるためにこの唄を消滅させてはいけないということで、昭和初期、唄い易く編曲し、親しみ易いように踊りを振りつけました。戦後、祭りの日に踊るようになりました。


最近では、金屋町の住人だけでなく、地元の二つの保育園、三つの小学校、一つの中学校、高校・大学の有志、民謡踊り団体の皆さん、校下の婦人会の皆さんなど大勢の人が参加してくださるようになりました。1000人を越える踊り手が石畳みを彩ります。


午後9時半前夜祭が終了しました。明日、公民館におわします神様の御前で神事が行われます。午後4時から利長公の墓前で、小学高学年生による奉納踊りが行われます。その後金屋町内を児童が踊ります。午後8時、神様が有礒正八幡宮へお帰りになります。

※利長公の命日は旧暦の5月20日です。新暦と一ヶ月ほど違うので6月20日を祭の日としています。利長が亡くなったのは、じめじめとした季節でした。いつか晴れる日を待ちこがれ空を眺めていらしたことでしょう。豊臣と徳川の間で苦しい思いをしながら、加賀藩の存続に力を注ぎ、いつか晴れ晴れとした時がくることを願っていた利長の心中と重なるような気がします。新暦の5月20日にしてしまうと季節が違います。決して五月晴れのすがすがしい日ではなかったと思います。
2010.06.20
 


参考:ミニコミ紙「たたら」のページで、関連記事が載っている号を紹介

たたら66号78号90号 御印祭を紹介
たたら27号38号 金屋町について紹介