38号 高岡金屋鋳物師のあゆみ
発行 2003.2月

その昔、高岡金屋鋳物師の先祖たちは、
河内国丹南郡狭山郷日置庄(現・大阪府河内郡美原町)において、
朝廷の仕事をしていた。
越前国府中 → 加賀国倶利伽羅 → 越中国利波郡を経て
般若郷西保(現・高岡市西部金屋)で鋳造していたところ、
1611年前田利長に高岡へ招かれ、土地を与えてもらい仕事を始めた。
緒役免除の特権を認めてもらうなど保護のもと、鋳物産業の地として発展していった。

拝領地の絵図と現在の写真
千保川沿いに長さ約100間、幅50間の土地を拝領(今石畳になっている道路は昔のままの道幅)
見るBの位置から
写真を撮った。↓
A 弥右衛門家(釜本晟一家、現・木津在住)の土地及び吹き場・・・・・・現在:金屋緑地公園
B 内免用水・・・・・・南部家の隣りで近年まで用水が流れていた
C 万右衛門家(喜多万右衛門家)・・・・・・今もその位置はほぼ当時のまま
D 新幸橋へ続く道・・・・・・B〜Dまでで約100間
(写真の真中あたり) 現在、拝領地を割るようにして昭和通りが走っている

 

江戸時代は、鋳物師が特権の擁護に結束してあたった時代だった
 真継家から受けた鋳物師職許状、
あるいは御綸旨(金屋町は仁安の御綸旨を所蔵している)を、
多くの大名は丁重に扱い、自らの藩政対策とも関連して、
鋳物師に対して手厚い保護奨励をした。


真継家 
朝廷の役所として全国の鋳物師を統轄。
ここの認可証がなければ鋳物業を営むことができなかった。天正4年(1576)御蔵宗弘判の「鋳物職座法」には、他の商工業者の座の掟とは多少異なり、鋳物師とともに自己の権益を守り、新規開業をあくまで防止する目的で作成されたものであった。

※仁安の御綸旨
蔵人所から出された書類で、諸役免除の特権や全国交通の自由を保証した内容となっている。
仁平の故事
(仁安の御綸旨が認められるきっかけとなったといわれる)

 仁平3年(1153)の春、夜中になると生あたたかい風が吹いて宮中の燈火は一度に消え、怪鳥が出没し、天皇の身体の具合が急に悪くなり、苦しまれるということが毎夜のように続いた。高貴なお坊さんの祈祷も効果がなかった。河内国丹南郡にいた鋳物師「天命」に鉄燈籠一基を鋳造させ、献上させた。この燈籠の火は、悪風が吹いても消えなかったので、さらに108基作らせると、禁裏は日中のように光り輝くようになり、怪鳥は源三位頼政が射止めた。天皇の苦しみは無くなり、病気も平癒した。
この時、鋳物師は国家の大切な器を作る職業であるからと「藤原」の姓を賜り、さらに宮中に出仕して天皇をお守りするよう命じられた


高岡金屋が発展することになった理由

◎奉行から何度も鋳物師の由緒が本当かどうか尋ねられた都度、「仁安の御綸旨」「将軍家の御教書」等をお見せして、課税を免れた。
◎真継家より宝永2年(1705)に「北国筋鋳物師頭役」に任ぜられ、管内で勝手に新規の釜屋ができないように取り締まる権限を得た。
これらのことを裏付ける古文書が金屋に数多く残っている。
去る、平成14年12月に金屋町公民館で行なわれた「金屋町を知る研修会」の講師は釜本晟一氏でした。今月号は、氏の著書「高岡金屋鋳物師のあゆみ」の中から編集しました。氏は、前田利長に招かれてきた鋳物師の末裔の一人だそうです。

たたら踏む愛し主さん
「火の粉吹き出す あの火のもとにゃ ヤガエ〜 愛し主さん たたら踏むエ〜 エンヤシャ ヤッシャイ」
と弥栄節の一節にあります。金属を溶かす火は、ひとつ間違えると何もかも焼失させてしまう恐ろしいエネルギーをもっています。その火を上手に扱い、硬くて冷たい金属に命を吹き込む鋳物師の真剣な仕事ぶりは、それはそれは魅力的だったことでしょう。こんな思い出があります。
 10数年前、鋳物組合青年部の家族会でバーベキューに行ったときのことです。かまどに薪をくべて火をおこし、網や鉄板を載せて食材を焼いて食べるものでした。さすが鋳物屋の若い衆、火の取り扱いはお手のもので、直ぐに火をおこし、火力の調整も思うがままで、女性と子供達は食べるだけでした。ところが、隣りのグループは20代の男女で、なかなか火をおこせず四苦八苦していました。「今の若いもんは火もおこせんのか」と、先輩顔で火をおこしてあげたのでした。女性と子供達は、誇らしげにお父さんを見つめたのでした。