弥栄節踊りが続く石畳通りの側溝の蓋(鋳物)

78号 2006.6月発行

―――――――御印祭 2006―――――――
御印祭

400年ほど前、加賀二代藩主前田利長が、城下町を開くにあたって、ここ金屋に鋳物師を招いて土地と仕事場を与えて鋳物産業を興した。税の免除など様々な特権を与えられ保護されることにより、栄えてきた。その利長の遺徳を偲んで、毎年ご命日の旧暦5月20日に感謝の意をささげていたことが御印祭の始まりだと言われている。今では旧暦5月20日にあたる6月20日に、有磯正八幡宮から御神体を金屋公民館にお迎えして神事を行っている。前日19日の夜には弥栄節が歌われ、1000人近い人々の踊りでにぎわう。
金森仁志さんの御印祭の思い出

弥栄節保存会囃子方頭。胡弓奏者。金屋町のホームページ「ねっとこ金屋」の責任者。

思えば御印祭への初デビューは昭和52年私が22歳の頃でした。現在の弥栄節保存会が発足して間もない頃だと思います。
当時は民謡団体の囃子部隊を招いての町流し演奏でした。習いたての三味線を片手に数名の若さ満々の金屋町地方(じかた)の囃子方が隅っこで参加していました。
心意気は「いつの日にかは金屋町の地方(じかた)での、囃子方部隊でご印祭を!!」そんな思いでへたくそな三味線を弾いていたものでした(笑)。それからまもなく応援部隊を招くまでもなくそれなりの地方(じかた)の囃し方連が出来上がってゆきました。
あれから30年余り.....かな。若々しいかった!金屋町地方の囃し方メンバーも中高年の仲間入り(笑)。気だけは若い集団となりました。
白髪が増えても腰が曲がっても「えんやしゃ^や〜しゃい」と歌い続けて行きたいものです。


鷲北久枝さんの御印祭の思い出

隣の市からお嫁に来られました。ヤッホーの会(弥栄節保存会内の活動グループ)で、三味線、踊りにと活躍中。

御印祭の日、夫は警備に、私は婦人部の街流しに、祭りに招待したはずの実家の母までがまだ幼い娘に付き添って子供踊りの列に加わっていいました。一家総出の御印祭に、戸惑いを感じたりしていました。それでも、1年1年と子供踊りの練習を重ね、奉納踊りもこなし成長していく娘たちと共に、私も踊りだけでなく賄いの手伝いなど御印祭を通して金屋町に馴染んできたように思います。
鋳物の町ということも知らずに嫁いできた私が、今はヤッホーの会員になり御印祭以外でも弥栄節を踊ったり、三味線を弾いたりしています。これも、今年はもう24回目になる御印祭を経験してきた成果なのでしょう。
神初洋子さん保存会について

金屋町で生まれ育った方です。子供のころから弥栄節を踊ってこられました。弥栄節保存会女踊り方のまとめ役

弥栄節保存会事務局のお世話をさせて頂いています。この会に入らせていただいていろいろな事を勉強させてもらいました。まだまだ住民の方の御印祭にたいする意識改革なんかも必要だなと感じましたし、若い方々の踊り参加も積極的にしてほしいと思います。
踊りは「疲れる」とか「恥ずかしい」とかではなくて「誇れる」ものだということを意識してもらいたいです。


御印祭の誕生秘話
 慶長19年(1614)利長は高岡城で亡くなります。その数年前利長が、西部金屋の鋳物師に高岡へ来て仕事をするようすすめ、住まいなどの配慮をした内容の書簡が残っています。また「柿をありがとう」などという内容の利長の書簡も多く残っていて、高岡町民と親しくしていたことが伺われます。
 このようなことから考えると、利長の死後、命日に遺徳を偲んでお参りしていたことは本当だろうと思います。そして、それが400年も続き、御印祭として今に至っているのです。

弥栄節の誕生秘話
 鋳物業は3K(汚い、きつい、苦しい)と呼ばれる職業ですが、大昔からそうでした。
機械のない時代、金属を溶かすときに大量の酸素を送り込む装置として「たたら」というのがありました。6畳ほどの大きさの板の両端に4人4人が向かいあって、板をシーソーのように交互に踏んで風を送ります。その作業が1晩中続きました。疲れてくる体を元気づけるため、また皆の足の調子をそろえるため、「エンヤシャヤッシャイ」と掛け声をかけるようになり、いつしか歌詞をつけて、節をつけて、唄うようになったのが弥栄節(やがえふ)です。
 合いの手の「ヤガエー」は弥栄(やがえ)から来ていると言われていますが、「イヤガヤー」(イヤダヨ)からきているという説もあります。たまにはおかしらの悪口など、いろいろな歌詞をつけて楽しんでいたのかなと勝手に創造しています。
 現代の弥栄節は親しみやすくアレンジされたものですが、正調「弥栄節」はテープに残してあります。