鳳鳴橋の欄干と川上の新幸橋 |
98号 2008.2月発行 |
――――――鳳鳴橋と新幸橋――――――
高岡駅正面から伸びた道を真直ぐ行くと、千保川に出合う。ここにかかる橋が、鳳鳴橋である。昭和通りと呼ばれているこの道は橋を渡ってまだ続き、国道8号と交差し、小矢部川に達する。昭和8年から12年にかけて都市計画に基づいて造られたこの県道は当時この辺りまでで、当初高岡駅長江線という名称だった。この道が造られたころは国道8号はまだ無かった。今では小矢部川を渡り、高速道路の高岡北インターへも行くことができる。そこから日本各地へと道が続いている。 都市計画法は、大正8年に公布された。明治維新から半世紀も過ぎると全国的に近代的都市化が課題となったのだろう。高岡市の街路計画が富山地方委員会で可決されたのは昭和4年であったという。まず、道路網の整備が必要ということで、20路線の道路の整備を計画した。その中でも市の中心部と伏木港を結んだ高岡伏木線(道幅十二間、途中二上城光寺から十間、十五間、十間と変化)、高岡駅を起点として延びる高岡駅長江線(道幅十二間、横田から長江まで十間)は重要な道路であった。この頃の輸送手段は舟、鉄道であって、トラック便など無かった。高岡中心部と伏木港を結ぶ道、金屋の鋳物工場から高岡駅へ品物を運び込む道が重要視されたことはうなづける。 この道は昭和9年3月に起工式を行い、昭和12年完成した。その年の「富山県人」という雑誌の3月号にこの道のことが載っている。「高岡市高岡駅前長江線の都市計画事業はこのほど完成したが、木舟町大野屋角を中心に都会化した片原町より千保川鳳鳴橋に至る間の商店街は今回昭和通りと銘打って名所地とすべく本日昭和通り商店会の発会式を挙行、命名祝いとして桜花の4月5日より10日まで大売出しを行なう事に決定した。」この記事から、新しい橋の名は鳳鳴橋、新しい道を昭和通りと呼ぶことになったことが分かる。 さて鳳鳴橋の名前の由来は、町を開いた前田利長が『詩経』の「鳳凰鳴矣于彼高岡」からとって町の名を高岡にした逸話からきている。鳳凰は聖天子の出現を待って現れるという平和の瑞鳥である。その鳳凰が鳴く高岡であってほしいという利長の願いを地名に託したのだろう。 慶長14年(1609)利長が新しい城下町を開くことになったのは隠居していた富山城が焼失したからである。当時利長は、恩のある豊臣と、勢力を増してきた徳川の間で苦しい立場にあった。そこで、徳川秀忠の娘を妻に迎えていた利常に家督を譲り、利長は富山城に隠居していたのである。新しい城を築くにあたって、守山城主だったころ眼下に眺めていた関野の地を選んだ。加賀、能登、越中三国の中心であり、穀倉地帯を背後に控え、小矢部川と千保川(当時は庄川の本流)の水運に恵まれた所であった。高山右近が縄張りした城は有事に備えた頑強な城であったらしい。表面は隠居でも高岡から政令を発し、利常を後見したものと思われる。 「『詩経』の「鳳凰鳴矣于彼高岡」は、天下太平をもたらした周代名君の盛徳を称えたものであるから、高岡という地名にはひたすらに楽土安民を願う利長の深い祈りが込められていたということができる。」という高岡市史の一文に心惹かれるものがある。 昭和24年7月7日七夕の夜、鳳鳴橋が災難に見舞われた。その夜は高岡名物七夕流しの日で、七夕を流す人、見物する人でごった返していた。高岡の七夕は屋根より高い竹に色とりどりの飾りと、たくさんの提灯をつけた豪勢なものだ。七夕の夜は親戚、近所の人、友人を招き、宴を催し、酔いがまわったころ賑やかに川へ流しに行くのである。得に派手なのは長男が生まれた年である。その賑わいを見物しに大勢の人が集まり最高潮に達した午後9時半ごろ鳳鳴橋の欄干が人に押されて墜落、観衆約60名が転落し、怪我人も出たそうだ。 昭和28年に鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられた。さらに昭和59年、橋の両側に歩道部分を設けるため拡張工事が行なわれた。彫刻のあるまちつくり事業の一環として鳳凰像が設置された。芸術院会員で文化勲章授章した富永直樹作、高さ2m75cmのブロンズ像である。これで見た目にも鳳鳴橋となった。 橋の名称は横田橋、内免橋など地名の名前を付けたものが多い。そのような中、鳳鳴橋は高岡開町の祖利長の思いに触れることができるので、私はこの名前が好きだ。鳳鳴橋より百メートルほど上流に新幸橋がある。幸せを運ぶ新しい橋という感じがしてこれも好きな名前の橋である。近所の長老何人かに聞いても名の由来は分からなかった。架けられた年代も分からない。北陸道であった横田橋や中島橋ほど古くはないのだろうが、明治29年の洪水の時の新聞記事に載っていることから、このころにはあったらしい。明治29年7月21日庄川が二塚村で決壊し、千保川に流れ込み氾濫しあたりは大洪水となった。この7月24日付富山日報の記事には次のように書いてある。 「高岡市に於いては木津橋、横田橋、中島橋、金屋橋、内免橋、及び二上橋等其東西に通するの橋梁は悉く墜落」 3ページ後には「流失橋梁 木津橋、横田橋、中島橋、金屋新橋、内免橋の五橋は悉皆流失又た木町橋は半落せり」。 その7行後には「又た橋梁の流亡せしは中島橋、横田橋、新幸橋、内免橋、二上橋、神社の流亡せしは川原神社」とある。 横田・中島両橋と内免橋の間にある橋は、金屋橋、金屋新橋、新幸橋と、複数の呼ばれ方をしている。名前が定着していないということは出来て間もないことを意味しているのだろうか。詳しいことは分からない。どなたかご存知の方があれば是非教えてほしい。 大正時代は車の数は少なくて、まだまだ舟運に頼っていた。新幸橋のたもとには大きな船着場があって魚市場へ向かう魚や、銅器や金物製品、原料、生活物資が揚げ下ろしされ、賑わっていた。大正11年、船着場を照らすコンクリート製の照明塔が設置された。荷物の揚げ下ろしが日の明るいうちに終われず、暗くなってもできるようにと造られたものである。それほど忙しかったものかと想像する。幸せを運んでくる場所のそばにある橋だから新幸橋と名付けた、そう考えてもいいのではないかと思えてくる。恵比寿塔と呼ばれるこの塔は今も川のほとりの駐車場の隅に建っている。 護岸工事がなされ、船着場の面影がなくなった静かな新幸橋を横目に、鳳鳴橋は朝夕、郊外の工場や会社へ向かう車が列をなしている。作り物の鳳凰が羽ばたきを止めて見ている。 |