![]() |
![]() 92号 2007.8月発行 |
――――――水天宮・燈籠流し――――――
8月16日、今年も千保川の灯篭流しが中島町自治会の皆さんにより行なわれた。暗くなり始めた川に、たくさんの灯篭が流れて行くのを、コンクリートの手摺り越しに見ていた。今年は異常な猛暑で8月から毎日が真夏日、今日も暑かった。クーラーのある部屋のほうが涼しいだろうに、夏の風物詩を見ようと出てきた人々で賑わい始めた。護岸工事がなされた川のコンクリートの岸から、家内安全などの願いが書かれた灯篭が次々と川面に降ろされる。使命を果たすべく灯篭たちは、漆黒の川面に明かりを揺らめかせて、闇の向こうを目指す。コンクリートの堤防の階段の上では、購入して願い事を書き込んだ灯篭を手に、流してもらう順番を待つ人の列ができていた。 |
|
今の千保川は住宅街を流れる静かな川である。400年ほど前、加賀二代藩主前田利長が高岡に隠居城を築こうとしたころは、庄川の本流で、暴れ川であった。三代藩主利常のころに洪水から高岡の町を守るため、大工事の末川筋を今の庄川へ移した。川の水量が減り中州ができたところに町ができ、これが中島町である。水量は減ったが、千保川は舟が行きかい、物資の運行に重要な役割を果たしていた。中島町は藩政時代の北陸街道が通り、水陸の交通が交わり大変賑わっていた。しかし大雨が降ると、川は元の筋へ流れ込み中島町は何度も洪水に見舞われた。 | ![]() |
![]() ![]() |
![]() |
この大雨のとき、中島町の人は水天宮の社殿が流失することを心配し、前もって川巴良諏訪神社にご神体を預けた。がしかし、そこも危なくなったため有礒正八幡宮の本殿左座に安鎮されたそうだ。それから祭典を続けてきたが、中島町にご神体をお迎えして祭典を執行したいとの声があがり、大正3年8月より、その年に中島町で家を建てた人や、中島町へ移り住んだ人の家を主に御旅所と定め、祭典を行い今日に至ったのだそうだ。神様をお迎えするときと、お送りするときたくさんの灯明を千保川に流してもてなしたそうで、それが今の灯篭流しの原点となっている。それからお盆の送り火の意味あいも込めるようになり、また願い事をも託す今の形になったようだ。洪水でなくなった人、川でなくなった人の霊を慰め、水難防止を祈る。 |
![]() |
![]() ![]() |
![]() 千保川の横田橋右岸を下流に少し行くと道があり、曲がると榎木神社の大榎が見えます。昔千保川が氾濫したとき、この木によじ登って助けを待ったという話もあります。この木は神が宿ると伝えられていて、榎木神社の御神体です。自然の岩や大木、山などを御神体とするのは遠い昔から続く素朴な形の信仰です。疫病や悪霊を退ける道祖神「さえのかみ」の神木としての「サエノキ」からエノキと呼ばれるようになったとも言われています。道祖神の守り神として、昔は村境、橋のたもと、道の端に榎が植えられたそうです。この榎のそばにも小さな祠があったそうで、それをお祀りするためにこの榎木神社ができたそうです。 北国街道を歩いてくると、千保川を渡って最初の町がここ中島町です。商店が並び、賑やかな町だったと思われます。人々は幸せな暮らしが続くことを願い、ただいたすら祈ったのでしょう。いまでも伸びやかに枝を広げている榎木を見ていると、人々の願いはいつの時代も同じで、平成の現代にも続いていることを感じます。 |