50号  2004.2月発行

―――――町の宝物 *鋳物史料館―――――

.....鰐口(わにぐち) 金屋町で造られ元禄9年(1696)に町民が有礒神社に寄進したもの。今は鋳物史料館(金屋公民館二階)にあります。
鋳物史料館
高岡駅から真直ぐ15分ほど歩いて、千保川にかかる鳳鳴橋を渡って右、金屋公民館の2階が鋳物史料館になっています。

鋳物作品をはじめ、鋳物作りの道具や、昔使っていた道具、昔の鋳造品がところ狭しと置かれています。また陳列棚には前田のお殿様からの書状や、鋳物師の免状にあたるものなど、多くの古文書が並べられていて、金屋町の歴史を語っています。


前田利長書状写(右の写真)

 「にしぶのかなやのいもし かんなへ三つあけ候 高おかへこし候いてしごとなといたし候へと 申へく候 やしき事もぶぎやう申つたい可申候」
訳・・「西部金屋(現高岡戸出西部金屋)の鋳物師にが燗鍋3つ献上してくれ、ありがたく頂戴した。高岡へ越して仕事などをするように伝えなさい。(鋳物師が住む)屋敷のことなどについても町割奉行へ伝えて鋳物師たちの言うところへ与えなさい」と、側近の者へ命じたもの
左の写真は拝領地(殿様から頂いた土地)の絵図。千保川対岸に幅50間、長さ100間余りの土地を拝領した。書き込まれている名前は開町当時のものではない。

仁安の御綸旨(皇室からの文書)

 「蔵人所・牒す」で始まり、鋳物師たちに諸役(税)の免除や通行の自由、鋳物に必要な土や薪をとる権利の保証を約束している。これがいつの時代も鋳物師の権利を守ってくれた。
左の写真は、朝廷へ献上していた燈籠の複製


なでしこの部屋
鋳物町っ子

私が子供のころ、わが町に住んでいる人たちは何かしら鋳物の関係した仕事をなさっていました。友達の家は遊びにいくと、家中に同じ形をした銅器の花瓶がずらっと並んでいて、それらに触らないように気をつけて遊んだものです。いくつも並んだ機械の間を抜けて部屋にあがった家もありましたし、色付け屋さんでは、異様な匂いのする不思議な色の液体の水槽の横を通って、遊びにいきました。日曜日の鋳物工場のなかで、型をとるための砂で遊んだという友達もいます。
私たちはまさに鋳物の町で育ったのです。働く大人の背中を見て成長しました。先人の思いを次代へ繋いでいこうとする姿を見ながら大人になりました。
今は工場も引っ越してなくなり、鋳物に関連した職業の人も少なくなりました。鋳物史料館が静かに昔を語り継いでいます。