48号 ゆく年、くる年、除夜の鐘
発行2003.12月



奈良飛鳥寺の梵鐘
(株)老子製作所作製

2003年が終わろうとしています。

大晦日の夜、新しい年を迎えるにあたって、

一年の煩悩を祓うために除夜の鐘が鳴り響きます。

鋳物の産地、ここ高岡では梵鐘も多く生産しています。

聞こえてくる音は高岡産まれかもしれません。




「平和の鐘」
二上山万葉ラインの八伏山付近にある。誰でも撞くことができる大きな鐘です。
梵鐘

お寺にある大きな法具。その大音声で仏の功徳を現す道具とされる。もともとは仏教団生活を規制するためのもの。「梵」はサンスクリット語の「神聖・清浄」を意味する。

その昔、鐘は日常的に身近にあった。朝夕の時を告げる。法会・祭礼の合図。非常を知らせる手段。災厄の邪鬼を祓う。煩悩を祓う。平和の鐘のように願いを込める。哀悼・鎮魂の意を現す。などなど。またその音は雅楽の「調子」を持っていると何かで読んだことがある。梵鐘生産会社の老子製作所さんのホームページには、余韻の中に含まれる「ゆらぎ」が心身をリラックスさせると紹介している。

先月高岡テクノドームで行われた「伝統工芸ふれあい広場」に展示された梵鐘
煩悩

自己中心の考え。それにもとづく事物への執着から生ずる。心身を乱し悩ませ、正しい判断を妨げる心の働き。
根本的な煩悩の三毒・・・貧(トン:むさぼり)、瞋(ジン:いかりにくしむ)、癡(チ:おろかしさ)

108煩悩

108という数字はインドで、非常に大きい数を表すときに使うからとか、中国思想の節気からきているとか諸説がある。人間のすべての煩悩を数え上げた数が108であるというのが一般的な説。数え方も色々ある。


なぜ煩悩があると幸せになれないのか

諸行無常:
万物は常に変化して移り変えあるもので、ひとときも同じ状態にない。生あるものは死に、形あるものは壊れる。
諸法無我:
全てのものは縁によって生じ縁によって成り立ち、縁によって滅する。ものの存在は縁によって和合して在るのであって、存在の本体というような実体は無い。

この諸行無常、諸法無我という道理を受け容れることができずに有限なものに執着し、追及しまた欲望を起こすから苦悩する。

真実の智慧を得ることによって煩悩を断ち切り、安らぎの境地である覚りの世界へと行き着くのだそうだ。

大晦日の夜、鐘の大きな音が響いたかと思うと、
暗黒の空へ吸い込まれるようにして消えていく。
次から次と、聞こえては消えるを繰り返す様は、
諸行無常を表しているかのようです


神妙寺(金屋町)さんの鐘

今回取材にご協力いただいた神妙寺さんの鐘には思い出があります。毎年、大晦日の除夜の鐘を近所の子供たちに撞かせてくださるのです。我が家の子供たちも小学生のころ、眠い目をこすりながらがんばって起きていて、友達と鐘を撞くのを楽しみにしていました。新しい年が明けると、参加者全員本堂へあがって、貸してくださった本を見ながらお経をあげました。とてもすがすがしい年明けだったのを覚えています。



大晦日

毎年12月31日、お正月の準備を整えて、おせち料理をこしらえて、お風呂からあがると、「ごーん、ごーん」と、重い音が聞こえてきます。窓を開けると、闇の中から染み出すように響いてきては、また吸い込まれるように消えていきます。
「無事に今年を終えることができてありがとう。」「新しい年も良い年でありますように」
と、誰に言うともなくつぶやいて窓を閉めます。中学3年の初めての受験を控えた大晦日から毎年続けていることです。お嫁にきてからも、窓から見えるものは変わりましたが同じ金屋の空です。
一年前もこうやって除夜の鐘を聞きながら古い年を見送りました。今年もあと少しで見送ることになります。来年もまた見送って、あと50回も見送ることもなく、私もこの暗い空へ消えていくのですね。
「だったら今のうちにおいしいもの食べて、楽しんでおかなくちゃ。」
あらっ、まだ覚りの境地にはほど遠いようです私。