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金屋町の近代史 発行2003.7月 |
![]() ※写真の鰐口は、元禄9年(1696)に鋳造され有礒神社に奉納されたもので、現在は金屋史料館(金屋町公民館2階)に展示されている。 江戸時代後期になると、小物銅器が作られるようになる。第一線を退いた鋳物師が、鉄より溶かし易い銅を使用して、キセル、仏具などの小物を作ったのがはじまりといわれている。 幕末以降の高岡銅器の流れを紹介しましょう。 |
文政2年(1819) 高岡町会所が地金問屋、銅器問屋を認める 問屋資本による流通体系の確立 弘化年間(1846頃) 問屋が名工に逸品を作らせる 横浜で貿易を始める問屋の出現 慶応元年(1865)頃 藩政の崩壊 真継家の統括がなくなり、自由に営業できるようになる 明治6年(1873) ウィーン万国博で受賞 以後、昭和の始めまで万国博に出展。 明治13年(1880) 高岡鋳物師製作の日本武尊銅像完成(金沢兼六園) 日本最古の野外ブロンズ像 明治29年(1896) 県工芸学校創校。 大正2年には県工業試験場が創設された。 明治末期から大正にかけて 高岡市内で次々とキューポラ(溶鉱炉)が建造された……近代化の芽生え 昭和8年 高岡大仏完工。開眼式。 昭和11年 生産額が530万円と戦前のピーク 昭和20年 第二次世界大戦後、高岡銅器は壊滅状態になる 昭和30年〜45年頃 高度成長経済は銅器業界に記念品ブームをもたらした 昭和50年 高岡銅器、通産大臣より伝統的工芸品の指定を受ける 昭和52年 高岡戸出に銅器団地できる 昭和61年 高岡クラフトコンペ開催 |
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※参考文献:写真 ・高岡銅器―熱き心の系譜;(北日本新聞社編)
・銅炎―高岡金工のあゆみ;(可西泰三)
![]() 時代の流れの中で 「大きな釜を積んだトラックが金屋から駅へと、日に何遍も出て行った。それが毎日毎日やったからどれだけの釜が売れたものだろう。活気のあった時代やった。」と、主人のお母さんは戦前の好景気のころを振り返って話してくれます。今は銅器・鋳造業界は不景気のあおりで冷え込んでいます。しかし、文明社会の基盤を確立することができたのは、溶けた金属を鋳型に流し込んでつくる鋳物の技術を知ってからだということですから、銅器・鋳造業が消えてなくなることはないと思います。いつかこの低迷している状態から抜け出し、新たな鋳物の時代を創れるはずです。 歴史をたどってみると、金屋町開町以来400年の間に、いろいろな困難をその時々の知恵と行動力で乗り越えてきた先人の姿が見えてきました。私達も、未来人から見て「困難を乗り越えた先人」と、言われるようになりたいものです。 ![]() |