43号 金屋町の近代史
発行2003.7月


江戸時代を通じて、高岡の鋳物師は鍋釜を中心とした鉄鋳物を主流とし、たまに鰐口や梵鐘を造っていた。また、貸鍋、貸釜を専業とする鍋屋がこれを鋳物師から買取って営業していた。この制度は長く第二次世界大戦前まで続いた。
※写真の鰐口は、元禄9年(1696)に鋳造され有礒神社に奉納されたもので、現在は金屋史料館(金屋町公民館2階)に展示されている。

江戸時代後期になると、小物銅器が作られるようになる。第一線を退いた鋳物師が、鉄より溶かし易い銅を使用して、キセル、仏具などの小物を作ったのがはじまりといわれている。
幕末以降の高岡銅器の流れを紹介しましょう。
文政2年(1819)
高岡町会所が地金問屋、銅器問屋を認める
問屋資本による流通体系の確立

弘化年間(1846頃)
問屋が名工に逸品を作らせる
横浜で貿易を始める問屋の出現

慶応元年(1865)頃
藩政の崩壊
真継家の統括がなくなり、自由に営業できるようになる

明治6年(1873)
ウィーン万国博で受賞
以後、昭和の始めまで万国博に出展。

明治13年(1880)
高岡鋳物師製作の日本武尊銅像完成(金沢兼六園) 日本最古の野外ブロンズ像

明治29年(1896)
県工芸学校創校。
大正2年には県工業試験場が創設された。

明治末期から大正にかけて
高岡市内で次々とキューポラ(溶鉱炉)が建造された……近代化の芽生え

昭和8年
高岡大仏完工。開眼式。

昭和11年
生産額が530万円と戦前のピーク

昭和20年
第二次世界大戦後、高岡銅器は壊滅状態になる

昭和30年〜45年頃
高度成長経済は銅器業界に記念品ブームをもたらした

昭和50年
高岡銅器、通産大臣より伝統的工芸品の指定を受ける

昭和52年
高岡戸出に銅器団地できる

昭和61年
高岡クラフトコンペ開催

問屋が販路を開拓し、銅器職人に都で見てきた流行のものを作らせ売りにだす。こうして全国に広がった。

やがて販路を海外にまで広げた。相手国の好みを調査し、デザイン、色彩などの改善を図った。そして美術工芸的要素を持った高岡銅器として発展した。
明治維新によって藩と武士がなくなり、金沢の金工師が高岡に流れ込んできて、高岡銅器の質が上がる。

時代の流れを見つめる高岡人は万博へ出展。万博の成果は単に銅器の販路を拡大しただけでなく、西欧の高度な産業技術を取り入れたり、新しいデザインの方向性を学んだ。

技術の進歩に、学校や試験場が大きな役割をはたした。
一貫して自家で行なっていた作業が、明治以後専門化し分業化した。原型、鋳造、仕上げ、研磨、着色、彫金、とわかれ技術、技能も進歩し生産量も高まった。

キューポラは、その中に地金と燃料のコークスを入れて着火し、モーターで風を送るしくみの溶鉱炉。――写真のキューポラと煙突は、旧南部鋳造所のもの。大正13年建造で、平成12年2月まで稼動していた。――
作れば売れる時代だったので、デザイン研究、技術の向上等の基本的なものを忘れがちになり、経済的には成長したが、製品の品質や伝統の維持の面からいうとマイナスだったと思える。
デザインのための感性をみがき、作家を育成する目的で、高岡市がクラフトコンペを開き、作品を全国公募している。――写真:高岡市観光パンフレットより、クラフト展の様子

※参考文献:写真 ・高岡銅器―熱き心の系譜;(北日本新聞社編)    
・銅炎―高岡金工のあゆみ;(可西泰三)


時代の流れの中で

 「大きな釜を積んだトラックが金屋から駅へと、日に何遍も出て行った。それが毎日毎日やったからどれだけの釜が売れたものだろう。活気のあった時代やった。」と、主人のお母さんは戦前の好景気のころを振り返って話してくれます。今は銅器・鋳造業界は不景気のあおりで冷え込んでいます。しかし、文明社会の基盤を確立することができたのは、溶けた金属を鋳型に流し込んでつくる鋳物の技術を知ってからだということですから、銅器・鋳造業が消えてなくなることはないと思います。いつかこの低迷している状態から抜け出し、新たな鋳物の時代を創れるはずです。
歴史をたどってみると、金屋町開町以来400年の間に、いろいろな困難をその時々の知恵と行動力で乗り越えてきた先人の姿が見えてきました。私達も、未来人から見て「困難を乗り越えた先人」と、言われるようになりたいものです。