40号 鋳物の5,500年史
発行 2003.4月

人類の文明は火の利用を知った知恵と、
空間に何か形のあるものを作ろうとする創造の本能に
ささえられて発展してきた。
木や石を使うことしか知らなかった原始時代の人々が、
この二つを結びつけて土の焼物をつくり、
やがて融けた金属を鋳型に流し込んで生活の道具をつくるようになってはじめて
現代の文明社会の基盤が確立した。(鋳物の文化史:小峰書店:より)

今から5500年前 ◎メソポタミア地方で鋳物づくりが始まる

金属の発見
偶然の機会に不完全燃焼する焚き火の炎で金属を含んだ鉱石が還元製錬され、金属が融けて流れ出し、石の窪みなどでその窪みどおりの形に冷えて固まるのを見て、鉱石から金属を取り出す方法と、融けた金属を型に流し込んで、鋳物を造る技術を知るようになった。しばらくすると、土をこねて金属を造る技術を知る。

弥生時代〜古墳時代
(今から2300年ほど前)
銅鐸
◎中国大陸から朝鮮半島を経てわが国に鋳物が伝わる。
◎弥生時代中期にわが国ではじめて鋳物が造られた。
 銅剣、銅戈、銅鐸、鋳銅鏡など作成
◎蝋型による仏教法具の鋳造
飛鳥、奈良時代〜平安時代

飛鳥大仏
(筆者撮影)
◎飛鳥大仏(606年):現存する最古の鋳造仏。渡来人3世の鞍作鳥が造った。彼はこのほか法隆寺釈迦三尊像など、数々のすぐれた仏像を製作
◎わが国最初の貨幣「和同開珎」鋳造(708年)
◎749年奈良大仏、仏体の鋳造終わる
◎平安時代に入った頃より、河内丹南が鋳物業の中心となってくる。この頃から鉄の鍋釜、農耕具の生産が多くなる。

律令体制が解体して荘園を基盤とする社会ができあがると、鋳物師たちも国家的支配からはなれ、荘園経済にくみいれられ、領主から給田をあたえられるなど格別の保護をうけ、仏像や梵鐘のような銅鋳物だけでなく、鍋釜や鋤鍬など鉄鋳物製の日用品や農耕具も造るようになった。

中世〜戦国時代〜江戸時代
鍋、釜、火鉢など日用品(金屋鋳物史料館;筆者撮影)
◎中世になると、特権的な同業者組織ができた。鋳物師たちの組織は3つあった。
1.燈炉以下鉄器供御人(右方作手)
2.廻船鋳物師(左方作手)
3.東大寺鋳物師
後に合併したり消滅したりして、戦国時代には弱体化した。
真継家が再興にのりだした。戦国大名に働きかけ、鋳物師をまとめることを認めてもらった。真継家が先例、根拠を用意し古くからの特権をもつ由緒鋳物師であることを保証、その代償として公事を徴収し、諸国の鋳物師を再組織することに成功。鋳物師と真継家の関係は明治まで続く。
◎真継家より鋳物師職許状(鋳物業を営むことを許可する書)の発行や、鋳物師職座法之掟(規則などを書いたもの)の制定
江戸末期〜現代まで
アルミホイール

アルミ建材→
(高岡市観光パンフレットより)
◎近代技術の導入
 大砲の砲身を造るようになると、たたらで風を送って木炭を燃やし、その熱で地金をとかしていた「こしき炉」にかわって、たくさんの溶鉄が一度にでき、強い鋳鉄が得やすい「反射炉」がつくられた。
◎明治に入ると、外国人の指導でキュポラが造られた。燃料はコークスで、送風はモーターを使用するなど、現在も多くの鋳物工場で稼動している近代科学技術に裏付けられた溶解炉である。
◎自動車エンジン部品、ジェット機のタービンブレードなどの複雑で精密な製品、カーテンウォール(外壁)や門扉・テラスなどの装飾鋳物、美術鋳物、ゴルフのアイアンやアクセサリーなど生活に密着した鋳物が数多く生産されている。
◎現代の日本の鋳物工業は、生産技術の面でも生産量でも世界のトップレベルにある。
※参考文献;図説日本の文化をさぐる「6」鋳物の文化史・小峰書店



4月1日(わたぬき)

 4月1日と書いて、「わたぬき」と読むことができるそうですが、私は今年それを実感しました。
 94歳のおばあちゃんは、これまでに家族みんなの綿入れのはんてんを作ってくれました。3人のひ孫達は、これを愛用して、受験中の寒い時期を乗り越えました。私もはんてんを作ってもらったのですが、もこもこして、家事をするにもじゃまなので、手をとおしませんでした。それならと、去年の年暮れにおばあちゃんは私に、綿入れのそでなしを作ってくれたのでした。
 トレーナーの下に着てみると何と暖かいこと。軽くて、袖は動かしやすいし、雪が降りしきる朝のゴミだしもルンルン気分です。なにしろ布団を一枚着ているようなものですから。
 と、快適な冬を過ごしてきた私も4月1日以降、そでなしを着るのを忘れていました。4月1日は、本当に綿入れを抜きたくなる日なのでした。