29号 なつかしの二宮金次郎
発行 2002.5月

     高岡銅器研究会創立30周年記念 隣りの金屋緑地公園の緑があざやかになってきました。この公園にレトロな銅像があります。戦前、全国の小学校にあった二宮金次郎の銅像です。全国的には石像が多かったらしいのですが、銅像はここ高岡でたくさん造られたようです。子供のころ、金屋の通りでも製品として置いてある像をよく見かけたものです。この公園の像は、友達の藤田恵子さんのご主人が社長である(株)平和合金さんからの寄付です。
「よく働き、よく学べという意味だよね」と恵子さんにいうと、「そんな一言では語れないよ。これ読んでみれば。」と、本を2冊かしてくれました。さすが製作する仕事がら、よく勉強しています。私と同い年の恵子さんは、金屋へ嫁いできて20数年、すっかり金屋人です。
二宮金次郎(1787〜1856)
14歳 現在の小田原で、農民の子として生まれた金次郎は、14歳で父をなくし、二年後母とも死別。さらにこの年、洪水で田畑を流失し、二宮家離散。伯父に寄食する。
20歳 この歳で独立するまで、知恵と勇気と行動力で逆境に立ち向かった。荒地に拾った種をまき、収穫したものからまた次の年に収穫することを繰り返し、「積少為大」を発見する。
26〜33歳ころ 小田原藩家老服部家の若党となり、家政再興に成功。大地主となる。
36〜45歳 小田原藩の財政再建にも成果をおさめた。その後も烏山、下館、相馬など数百村で、農村改良策を成功させた。
53歳ころ 報徳仕法をひろめた金次郎のもとには、百人あまりの弟子が集っていた。
報徳仕法・・徳を以って、徳に報いる
58歳 幕府より日光神領荒地開拓調査の下命。
70歳 永眠。報徳仕法は、没後弟子達に引き継がれた。

※参考図書:「二宮金次郎のミラクル経営再建術」大石三四郎著

なぜ全国の小学校にあったのか
勤倹力行の金次郎を国民の模範人物として、修身の教科書に取り上げられた。しかし、銅像の設置は文部省などの指導によるものではない。石材石工職人が商売と結びつけたのだ。また、尊徳の教えを受け継いだ報徳人たちが学校へ寄付をするというかたちで増えていったと思われる。
高岡銅器とのかかわり
銅像は石像より値段が高いのでなかなか増えなかったが、銅像が本格的に普及するのは高岡が生産にのりだしてからである。高岡は大量生産にたえうるだけの営業ネットワークと生産力があった。昭和5年ごろから15年ごろまでよく売れた。
どうして造られなくなったのか
新しい学校にはほとんどない。質素な勤勉家のイメージが今の時代にあわないということもあるが、金次郎像に込められた裏の意味にあるのではないだろうか。親への孝行、学問の大切さ、倹約して働くことを教えているようになっているが、我慢して働いていればいつかは金持ちになれるかもしれないという幻想に裏打ちされた滅私奉公を至上とする教育だったようだ。

※参考図書:「ノスタルジックアイドル二宮金次郎」井上章一

「大事をなさんと欲せば、
小なることを怠らず勤むべし」
きょうもこつこつと一生懸命生きていきましょう
いつか夢がかなうでしょう
一度しかない人生、有意義なものにしましょう
と、なでしこは思うのでした。

なでしこの部屋

ちょっとうれしい話

 うちの商売の事務所は長慶寺にあります。十数年前に金屋の住宅裏から引越したのです。ちょっとうれしい話はその事務所の台所の鏡にあります。これはお店で一番安いものを買ったのですが、不思議なことに美人に映るのです。家の鏡には、色あせたおばさんが映るのに、なぜかこの鏡ではすっきりと細く映ります。思わずうれしくなって目をぱっちりと開き、にこっと笑ってみると鼻の横のほくろもかすんで見えなくなります。そうすると気分が良くなって、さあ仕事頑張るぞと、なるわけです。
 けれどよく見ると、この鏡ゆがんでいるらしいのです。顔を移動させると、映った目や鼻がヒョコヒョコと波打ったようになります。昔あったマジックミラーのようです。顔が長く、足が短く映ったり、少し動くと違うところが長くなったりしたあれです。ただしこの事務所のマジックミラーは、私の顔にあたるところだけ細く映るので、ほかの人では細く映っていないのかも知れません。ということは私だけが美人に映る鏡なのです。
 鏡を買うなら、ありのままを映す高価なものより、安物をお薦めします。ただしうまい具合にゆがんでくれるかどうかは運しだいですが。