26号 北陸の道−今昔−
発行 2002.2月

用があって、東京へいってきました。
新幹線を乗り継いで3時間半ほどで着きます。
加賀藩の殿様の参勤交代の行列は13日かけて江戸までの道を歩いたそうです。
もっと昔、
大伴家持が京都から高岡へ来たころにはすでに道が整備されていたということは、
大昔から人々は日本中を歩いていたということです。


越中の駅家配置図 (9世紀)
律令国家は、畿外の国々を東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の七つの道に沿った地域に編成した。令制では、都と地方を結ぶこうした諸道に、30里ごとに駅を設け、駅馬と人夫が備えられた。七道は大路・中路・小路にランクづけられ、北陸道は少路と位置づけられた。越中国府は現在の高岡市伏木古国府にあったが、国司の下向や中央の命令の伝達、また、地方から都への報告や、都への貢納物の輸送などに、各駅家に置かれた駅馬、各郡に置かれた伝馬の常備の交通機関が使用されたのである。県内でも北陸道の痕跡と思われるものが、小矢部市や魚津市で確認されている。

文政8年石黒藤右衛門信由作成の絵図をもとに掲載した「ふるさと富山歴史館」を参考にしました。
越中国を東西に貫く幹線道路は、中世以来、倶利伽羅峠を越えて今石動ー木舟ー戸出ー中田ー水戸田ー黒河ー富山を経て水橋に至っていた。
天正13年(1585)前田利家が守山城に入ると、今石動から小矢部川左岸の道をとり、佐賀野ー守山ー二上渡りー開発ー古定塚ー三好子ー二口ー水戸田ー黒河へと変更された。
慶長14年(1609)利長が高岡城を築くと、本街道を城下の中枢に導くため、石動で小矢部川を渡り右岸に出て福岡ー立野ー高岡の町(横田町ー中島町ー旅篭町ー通町ー山町筋ー平米町ー土器町(今の大坪町)で開発からきた元の道に合流して古定塚)ー二口ー水戸田につないだ。
三代藩主利常は、旧高岡城の横を通るように変更して町の中心部に人が集まるようにした。(山町筋から坂下町に折れ、定塚町ー蓮華寺ー二口とした)※「たたら22号」参照
いまから100年前、富山県に鉄道が開通して以来公共交通機関が発達し、大衆の足となった。その後、電車やバスも登場し、交通網が次第に整備された。
第二次世界大戦後の混乱期を経て、鉄道・バスとも復興し、隆盛に向かった。しかし、高度経済成長期に入り、道路の整備が進むとともにモータリゼーションが進み、乗用車が著しく増えた。そのため、公共交通機関の利用が減退し、赤字路線が増えつつある状況となった。

参考「ふるさと富山歴史館」

大昔の人は遠くへ行く手段がなくてひっそり暮らしていたと勘違いしてました。
こうしてみると、古代の道も現代の道も位置があまり違わないことがわかりました。
大昔の人も小矢部川をはじめいくつかの川を渡り、
日本海を眺め、立山連邦を仰いで、
歩いて行ったのですね。

なでしこの部屋

ストーブ当番の思い出

 私が小・中学生のころの教室の暖房はコークスのストーブでした。窓の外は白い雪景色でもストーブの中で赤々と燃えている炎を見ると、体の芯まで暖かさが染み込んできたものです。中学生になるとストーブ当番がまわってきました。友達より20分ほど早く登校し、用務員さんの所で火種をもらってきてストーブの火をおこすのです。なかなか火が着かないし、途中で消えると寒くてクラスの皆から恨まれるしで、ストーブ当番はいやな役目でした。でも私は火が着く瞬間が好きでした。メザラの上にコークスを一段敷き詰めて、中央に火だねを置いて下敷きで扇ぎます。コークスが赤くなってきたら、上からバラバラとコークスをまいてまた扇ぎます。炎の様子をみながら消さないようにコークスを足していきます。炎が勢い良く上がれば大丈夫です。黒いコークスが少しずつ赤くなってやがて炎が命を与えられたようにめらめらとゆれながら大きくなっていくのは感動的でした。中2からは石油ストーブになって、毎日暖かく過ごせましたが、楽しみが一つ減りました。
 実は私は、祖母から「上手に火をおこせないとお嫁にいけないよ」と、火をおこす手ほどきを受けていたのでした。祖母達の時代は堀ごたつ、火鉢、かまどなど、消火のことを含めて火をうまく扱えないと、快適な生活はおくれなかったのでした。