「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず 淀みに浮かぶうたかたは かつ消え かつ結びて 久しくとどまりたるためしなし」
やさしい風に誘われて、二階の窓辺の椅子に腰掛けて眼下の千保川を見つめていると方丈記の一節が浮かんできます。次から次へと止まることなく光をけちらしながら、水は目の前を行き過ぎていきます。 向こう岸に目をやると、夕陽のスポットライトの中で「えびす塔」が真直ぐ空を衝いています。煙突かと思っていましたが、舟着き場を照らす照明塔だったということです。今はコンクリートで四角く囲まれ大きな排水路のようになっている千保川ですが、かつては舟が行きかっていたそうなのです。「えびす塔」はまだ薄暗い夜明けや、日が暮れてしまった夕刻に、舟の荷物の揚げ降ろしをする人々を照らしていました。川原町にあった魚市場に運ばれる海産物、鋳物業に必要な原材料など、多くの品物が行き来する活気のある場所でした。車も鉄道もなかったころは、ここが高岡の玄関だったのです。
私の周りでは、「舟に乗って伏木の港まで軍艦を見に行った」と話す人、「夏は川で泳いだ」「冬は土手でスキーをした」とか、想像もつかない川の姿が聞かれます。舟を曳いて上ってくるたくましい女の人、川の底に沈んだ地金を集めて小銭に換える人など生活臭のする話。洪水で流された話など、このあたりの戦前生まれの人たちの思い出話に必ず千保川が登場します。
同じ町内から嫁にきた私にとっても千保川は身近な川でした。昭和31年生まれの私が物心ついたころは護岸工事が始まっていて、川と触れ合えなくなっていました。わずかに覚えているのは4,5歳のころ七夕流しの行事で、弟の七夕を流したことです。願い短冊をたくさんつけた、屋根より高い七夕が、橋の上からどさっと川面へ落ちて行って、ゆっくり闇に飲み込まれていきました。幼い私はこのまま天の川まで流れて行くものだと思い、その後、弟の七夕があるかと毎晩空を見上げていたものです。
しかし、高度成長時代になって川の両岸には工場が建ち並び、川の水はみるみる汚れていきました。赤色やら青色やらの水が入り混じり、油が浮かんでぎらぎらと不気味な光を放っていたのを覚えています。七夕流しも中止となり、夢を運んでくれた川は工場の排水を流すところとなってしまいました。護岸工事が完成すると、人間は川を支配したと勘違いして、汚水を流し放題にして、挙句の果てに川の自浄作用の消滅、命を育む環境の破壊を招き、死の川に至らしめたのでした。それでも私たちは小学校では「さやかに歌う千保川〜」と、校歌を歌っていました。
その後、公害対策もきちんとなされ、工場も郊外へ転出していったためきれいな川に戻ってきました。最近は「千保川をきれいにする会」など多く団体の人々の活動の成果が出て、きれいになってきました。千保川沿いの校下の小学生が鮭の稚魚の放流を行い、秋には溯上する鮭の姿を見ることができるようになりました。
千保川は、高岡駅前の道をまっすぐ歩いて15分ほどのところを流れる川です。時代を遡ること400年前、加賀二代藩主前田利長がここ高岡に城下町を築こうとしたころは、千保川が庄川の本流だったそうです。駅前からまっすぐ歩いていくと大和百貨店の横から下り坂になっています。ここが土手で、坂の下辺りまでが川筋だったようです。町を洪水から守るため、三代利常が千保川の流れを今の庄川へ移す大工事にとりかかり、44年もかかって完成しました。水が引いてできた土地で、もとの流れを用水として利用し、良質の米が多く生産されるようになりました。利常の指揮のもとに働いた人々の汗がおいしいお米となって私たちの生活を豊かにしてくれていることを、感謝しなければなりません。
しかし大雨が降ると、川は元の筋へ流れ込み、何度も洪水に見舞われました。私の祖父はよく洪水の話をしてくれました。「わしが生まれる前に大洪水があって、そんとき家が川のそばにあったもんで流されたそうや。お椀の箱が川下で見つかっただけで、あとぜんぶ無くなったそうや。」その時の洪水は、多くの家が流され、大勢の命が奪われた大災害だったようです。昭和30年代後半の護岸工事のおかげで、洪水の恐怖から解放されました。護岸工事の話を聞く機会があり、そこで様々な被害を考慮して綿密な計算のもとに造られていることを知りました。私たちの生活が守られていることを強く感じました。ただし、自然の力は計り知れないものがあるので、甘くみてはいけないことも教わりました。
昔から川沿いのいたるところに水神様が祀られ、川と地域の人々がかかわりあって生活していました。川で穢れを祓えば清い身となれる、川はやがて黄泉の国と繋がるなど、大昔から川は人々の精神面でも重要な意味をもつところでした。洪水が起きませんように、水難事故がありませんようにと、川の神様のご機嫌を取りながら、一生懸命祈り、また、川の恵みに感謝しながら川と共存してきたのです。千保川の水量が減ってできた中州にある中島町ではよく洪水に襲われました。そこで町では昔から毎年8月16日に水天宮のお祭りを行い、灯篭流しをしています。亡くなった方のご供養だけでなく、家内安全などの祈願もしています。今年の祭りの夜も、川面に浮かべられた灯篭たちは、使命を果たすべく、漆黒の川面に明かりを揺らめかせて、闇の向こうに消えていきました。
子供のころ、この川の水はどこから流れてくるのか確かめてみたくて上流へ歩いてみました。けれど隣の町まで行くと怖くなって引き返してしまいました。昨年、その願いが叶うこととなりました。
「千保川を語る会」で、上流から小矢部川との合流地点までを何回かに分けて探索したのです。上流域へは貸切バスで出かけました。千保川の始まりは、庄川水記念公園横の合口ダムから取り込まれた水でした。そこは野生の山桜が所々にピンクの模様をつけた美しい山に囲まれたところでした。しばらく地下を流れ、地上に出てからは用水となって、砺波野を潤し、戸出工業団地の横から千保川という名称になります。その後、おとぎの森公園内で子供たちと戯れ、北陸本線の下をくぐり、我が家の前を流れ、工場跡にできた住宅街の横を流れ、木町で小矢部川へ注いでいることをこの目で見てきました。夕方からおとぎの森公園近辺を歩き、ほたるの舞を楽しんだこともありました。その地域に行って直に体験することで色々な事を学びました。川の流域に住む人々との交流、千保川に関わった先人たちの思いと時代を超えて触れあえたことも貴重な体験でした。
昭和12年、高岡駅から北西へ延びる新しい道ができました。千保川にかかるこの新しい道の橋は「鳳鳴橋」と名付けられました。町を開いた利長公が詩経の一節「鳳凰鳴けり、かの高き岡に」からとって町の名を高岡にしたという逸話をもとにした橋の名称です。吉鳥である鳳凰が舞い降りてくれる町であるようにとの利長公の願いが感じられます。昭和通りと呼ばれるこの新しい道は、その後国道8号線とつながり、最近高速道路が開通し、全国へ通じています。鳳鳴橋に設置された鳳凰像はひっきりなしに通る車を見つめています。100mほど川上で、かつての町の玄関であった舟付場に立つ「えびす塔」が、時代の流れをかみしめています。変わりゆく時代の中で、「自然」と触れ合うことができなくなってきています。窓の下を流れていく千保川を見ていると、この川は自然の一部なのだと感じます。人間の思い通りにならない「自然」、しかし恩恵をもたらしてくれるのも「自然」です。上手に共存していけたら、平穏で豊かな暮しになるのではないかと思えてきました。今後も千保川を語り続けていこうという思いを強くしました。
小学校の写生会で、私の母は横田橋の横の柳を描いたといいます。私は汚れた川を描きました。娘は鳳鳴橋の鳳凰像を描きました。その子供たちはどんな千保川の絵を描くのでしょうか。と、太陽が沈み「えびす塔」を照らしていた夕日のスポットライトが消えました。川の水音が心地よく響いています。