116号2009.8月発行 |
夏の夕暮れ;金屋西町 |
―――――明治における高岡の輝き―――――
高岡は、廃藩置県によって当初金沢県の一部となりました。
富山県になったのは、明治16(1883)年のことです。
明治22(1889)年、市制施行によって高岡市となります。
このとき、県庁所在地以外で市になったところはほんの数例です。
|
高岡は、藩政時代からコメと綿の取引で、商人は着実に財を貯え、経済力を高めていました。明治18(1885)年、高岡米商会所開業しました。
明治になって、金沢では藩主が華族となって東京へ移り、武士階級が消滅し、金銀細工など多くの職人が高岡に流れ込みました。高岡には北陸随一を誇る鋳物の生産があり、漆器などの工芸品の生産も盛んでした。金沢の洗練された芸術性を取り入れてさらに栄えていきました。
豪商たちは、時代の動きを積極的に取り入れ蓄積されてきた資本を鉄道港湾、貿易、銀行、近代的工場に投資しました。
明治26(1893)年、千保川沿いに「高岡紡績株式会社」創業。紡績用自家発電の余った電力を活用するため、その工場の一画に「高岡電燈会社」を設立しました。そのほか千保川沿岸に、捺染工場や鋳物工場が立ち並び、高岡の一大工業地帯をなしていきました。
明治28(1895)年「高岡共立銀行」(現:赤レンガの富山銀行)設立。守山町や御馬出町の商人町の通りには、証券会社や金融会社の本店、支店が軒を連ね、北陸の「ウォール街」と呼ばれました。
明治33(1900)年、高岡大火で市の約六割が焼失しました。前年に施工された県令「建物制限規則」にもとづいて火災に強い土蔵に建て替えられました。重厚かつ豪華な構造からも、商人の資金力を垣間見ることができます。 明治30(1897)年、高岡―福野間に私設中越鉄道が開通しました。(翌年城端まで開通。現JR城端線))。明治31(1898)年、官営の北陸鉄道(現JR北陸線)が開通。明治33(1900)年には高岡・伏木間開通(現氷見線)。
明治32(1899)年、伏木港は木造の北前船に取って代わり、大型の蒸気船が着岸するようになりました。外国貿易のできる港として国の指定を受けました。
明治41(1907)年、伏木臨海工業地帯に高峰譲吉らにより「北陸人造肥料株式会社」設立。また譲吉は、アルミニウムの工業化を提案した人でもあります。
明治終り頃から、伏木は工場進出ラッシュで、県内初の近代工場地帯となりました。低価格の電力と豊富な工業用水、大型貨物船が着岸できる港、中越鉄道で大量輸送が可能だからでした。
昭和5(1930)年 「北陸アルミニウム器具製作所」以後次々とアルミ関連会社が創設され、日用品から建材に至るまで、アルミニウム製造は高岡の代表産業になりました。アルミ産業は、開町以来の鋳物技術を活用して発展してきたのです。。
|
高岡老舗会 | |||
歴史ある高岡には志をもって創業し、代々受け継がれてきた商家、製造所が多くあります。
今日も地域の活性化と発展をめざし努力していらっしゃいます。高岡老舗会は、高岡商工会議所の会員で、創業100年以上の事業所から47社が加盟しています。(我が社も加盟しています)
下の写真は老舗会に加盟している店舗です。
先祖の思いを受け継ぎ、社会の役に立つよう、また潤いのある生活のためにと、日々努力していらっしゃいます。
|
|||
|
開町までの高岡のあゆみ
前3500〜(縄文時代)小竹藪、中川に集落
前100〜(弥生時代)石塚、下老子笹川に集落
4世紀(古墳時代)桜谷、板屋谷内に古墳群
702(大宝2)年 越中国は、射水、砺波、婦負、新川の四郡に
746(天平18)年 大伴家持越中国司に
1183(寿永2)年 般若野で倶利伽羅前哨戦
1333(元弘3)年 恒性皇子、二塚で殺害
1367(貞治6)年 斯波義将、守山に守護所
1560(永録3)年 上杉謙信、越中に侵入
1584(天正12)年 佐々成政、勝興寺を伏木に
1585(天正13)年 前田利長、守山城主
1598(慶長3)年 利長、家督を継ぎ金沢城へ
1605(慶長10)年 利長、隠居して富山城へ
1609(慶長14)年 富山城焼失し、新しい城を築き高岡町を開く
|
大伴家持像:高岡駅前 |