かたかごの花をモチーフにした側溝の蓋: 国庁があったとされる現在の勝興寺から下ってくる道の側溝の蓋です。この通りには家持が住んだ国守館があったそうです。 |
106号 2008.10月発行 |
第19回万葉集全二十巻朗唱の会 (平成20年10月3日〜5日) 万葉集のすべての歌を三日間夜を徹して詠いつなぐイベントです。市民はもちろん全国から参加者を募って行なわれます。十数年前子供と一緒に参加したことがあります。この時期の夜は寒いのですが、今年は暖かかったので、主人と二人で出かけて見ました。 |
今からおよそ1260年前、当時越中の国府は高岡市伏木の高台にあったといわれています。今は勝興寺が建っています。大伴家持は越中に滞在した5年の間に223首を詠み万葉集に収められています。 | ||
越中国庁跡の石碑 | 二上山(ふたがみやま) | |
国庁のすぐ近くにある、奈良の二上山(にじょうざん)と同じ名の山、二上山(ふたがみやま)を特別の思いをもって歌に詠んでいます。 | ||
二上山頂から立山連峰 | ||
舟遊びを楽しむ布施の湖、狩をした石瀬野、風光明媚な渋谷の浜、神々しい姿の立山連峰、季節の花々が咲き乱れる美しい土地で家持は多くの歌を詠みました | ||
万葉歴史館 | 渋谷の浜(現;雨晴) |
高岡伏木の歴史
大伴家持が伏木に赴任していた当時の越中国は、能登半島を含む大きな国でした。 国府は地理的に中心であった伏木にありました。
伏木は港があり、政治、経済、文化の要の地点でした。 1584(天正12年)勝興寺がこの地に移りました。 勝興寺は加賀藩と強いつながりを持っていたので勢いがありました。 伏木の海運業が栄える助っ人でもあったと考えられています。 18世紀には多くの回船問屋が出現しました。 伏木は、上方から瀬戸内海を廻り、北海道の松前までを結ぶ北前船、西廻り航路の中断地点として栄えました。 明治になると蒸気船が普及しました。
藤井能三は洋式汽船を伏木に回船させ、国内各地と結ぶことに成功しました。 1899(明治39年)世界中と貿易できる開港場に指定されました。
現在も、環日本海交流の拠点として重要な役割を担っています。 |
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なでしこの部屋=======<なでしこの花>
「我が宿の なでしこの花 盛りなり 手折りて一目 見せむ子もかも」 1496 大伴家持「我が宿に 蒔きしなでしこ いつしかも 花に咲きなむ なそへつつ見む」 1448 大伴家持 大伴家持は都から遠く離れたここ越中の住まいの庭に「なでしこ」の種を蒔きました。家持の好きな花だったようです。「撫でてやりたいほどかわいい花」ということから「撫子」と名づけられたそうです。
「なでしこが 花見るごとに 娘子らが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも」 4114 大伴家持
なでしこの花を見るたびに少女の笑顔のような美しさを思いおこしますという意味で、奈良にいる奥さんを思って詠んだそうです。なでしこの花は笑顔の美しさ、可憐さに例えられています。そう言われてみれば、こちらへ微笑みかけているような花です。
日本の女性を褒めて言う言葉として「やまとなでしこ」という言葉がありますが、私は「誠実で思いやりがあり、しなやかで柔軟な感性で自分の進むべき道を行く。」ということだと解釈しています。日本を代表する「やまとなでしこ」にはなれないとしても、金屋で活き活きと生きる「かなやなでしこ」でありたいと思っています。
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