高岡の天神様
高岡の家の多くは、お正月の床の間には天神様を飾ります。我が家では三伏の天神様の掛軸を飾り、その前に木彫りの天神様をお飾りします。真中の天神様は主人のもので、両脇は先代、先々代のものです。木彫りのものは息子のものです。高岡では男の子が誕生するとお嫁さんの実家から天神様をもらいます。ただし、長男だけで、次男以降は自分の天神様はありません。分家した家に男の子が生まれないと、お正月の床の間は日の出などのおめでたい掛軸となります。
1月2日に天神様の前で書き初めをすると字が上手に書けるという言い伝えがあります。さすが学問の神様です。25日には帰っていただきます。箱にお納めして蔵で保管することなのですが、このように言います。ずるずると飾っていてはいけません。知人のお母さんは「帰り道が込み合ったら気の毒やから、人より先に帰ってもらわないと」と言って朝早く片づけられるそうです。私たちにとっては、本当に親しみのある生活に根付いた神様です。
天神信仰は、菅原道真の怨霊をしずめることから天神信仰が始まって、今では道真が学識が高かったことから学問の神様として信仰されています。けれども、高岡のお正月の天神様は全国的な天神信仰とは少し違うような気がします。怨霊などとは思ってもいませんでした。無事に新年を迎えられたことに感謝し、今年も良い年でありますようにと祈り、子供は頭が良くなりますようにとお願いします。
高岡の天神様信仰には高岡開町の祖、加賀藩二代藩主前田利長公と深い縁が有りそうです。
利長公の父である前田利家公が、菅原道真公を祖とすることに由来すると言われてきました。しかし城があった金沢では天神様かざりは、武家および大商家大地主、十村などの一部にとどまり、ほとんどの家にはその風習はなっかたようです。
ただ、福井県には天神様飾りの風習がありました。西村忠著「北陸の天神様かざり」によると、「学問教育や殖産振興に力を入れ、藩財政の改革に全力を注いだ第十六代藩主松平春嶽公が、領民が勤勉に心がけ、殖産に励んだなら生活は向上するだろう。そこで菅公に着目し、、新年にあたり心を新たにするため、正月に家に天神画像を貼ることを奨励した。それが富山の薬売りによって富山藩へ広まった」というのです。
けれども高岡は富山藩ではなく、端のほうではありますが一応加賀藩です。富山への伝わりかたはそうであったかもしれませんが、高岡のものは違うような気がします。。
近所の眼科医で歴史家の飛見立郎先生から、お書きになった本をいただきました。「「稿本」高岡における正月の天神祭の起源」、「「高岡における」正月の「天神祭」と高岡人気質」の二冊です。
先生曰く、「高岡における正月の天神祭は加賀前田家の治民政策として人為的に、慶長年間のある時期、導入創造されたものではないかと考える」。高岡城を中心とした新しい町を作るにあたって、一向宗により強く結ばれていた農民集団を弱体化させ、新たな絆を誕生させるために、天神信仰を奨励したのではないかとおっしゃるのです。北陸地方は山陰地方、東北地方とともに菅公の怨霊伝説が存在しない地方だったので都合が良かったそうです。また、講としての横のつながりのない不思議な天神信仰は、ここ高岡独特のものだそうです。
「我らがご先祖様たちが、御領主さまのご先祖である道真公をかってに「福の神」「商売の神」に変質せしめた鮮やかな手口は、さすがご先祖様と胸のすく思いをしています。」こういうところは、私も共感できます。
「高岡の天神祭は加賀藩によって人為的に導入されたものとしてもそれを町人たちの手で町人流の神として発展させ、あまつさえ内に秘めた反抗心の発散場とした・・・・高岡商人の誇りを感じ取ってほしい」
高岡における天神祭の起源はなぞのままですが、多くの先人たちががんばってこられた原動力はここにあるのかも知れません。
2010.01.01
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