4号 発行 2000.4月

―金屋町を知る研修会第4回より-

第4回は大菅正博さんのお話でした。
大菅さんは「吉久の伝統的町並みを考える会」会長さんです。

吉久地区は、8世紀後半からの歴史がある古いところだそうです。
加賀藩の御収納御蔵の町となってからは、
大変活気があったようです。
大菅さんのお話しぶりから、当時の町の様子がいきいきと
伝わってきました。

江戸時代の吉久
砺波や射水のあちこちから収穫された米は千保川を舟でくだり、吉久の蔵へ納められる。
おびただしい数の米俵は北前船に積まれ、伏木浦から江戸や大阪に運ばれて換金される。
加賀藩の経済を支える重要な場所であった

 
参考

主要官道(北陸道)が通る高岡は「木町」を中心に、米、綿、麻、塩などがおびただしく動く物流の拠点でした。町民の生活必需品を供給するため小売業も繁盛しましたが、高岡商人の根幹は加越能三国全域の商品の流通を担当する問屋業でした。やがて高岡は「加賀百万石の台所」といわれるまでになり、今日の商都高岡のいしずえとなりました。―高岡市立博物館のパンフレットよりー

※吉久では今町並み保存に力を入れていらっしゃいます。これは金屋町も同じです。

なでしこの部屋

金屋ことば

男1「ばっ。なんしとんがい」
男2「なーんもしとらんわい」

と、大きな声をはりあげ早口で話しているのを耳にすれば、けんかをしているようです。でもこれを訳すと、
男1「きみはなにをしているのですか」
男2「なにもしていませんよ」
と、たわいもないことなのです。
金屋の町に鋳物工場がたくさんあったころは、職人さん達の威勢のいい声があちこちで聞かれたものです。
小学1,2年のころにこんな思い出があります。私はその顔のつくりから、じみで静かな性格だと先生に思われていました。それが大声で早口でしゃべるので、先生はとても驚いたそうです。母が通知表をもらいにいったときにそれを聞かされて、「はい。金屋もんですので」と答えたそうです。その話を聞いて、なぜか私はうれしく思ったのでした。間違い無く金屋人だと証明されたような気がしたからでしょうか