3号 発行 2000.3月

おもしろ金屋町

―金屋町を知る研修会第3回より−
―「高岡町の生い立ちから今日まで」郷土史家・樽谷雅好―

子供のころ遊んだあのお寺が、鞍馬天狗の寺と関係があるかもしれないとか、
鬼ごっこやかくれんぼで走り回ったあの路地に、町を造った武将の策略があったとか、考えるとおもしろい。

前田家三代の歴史と高岡(前田家家紋―梅鉢)

1562 前田利長、利家の長男として生まれる
1575 越前一向一揆を織田軍が鎮圧
前田利家、不破光治、佐々成政らが活躍
1581 前田利家、小丸山城主(七尾)となる
利長、永(織田信長の娘)と結婚。越前府中の城主
1582 本能寺の変。後金沢城を政略
1585 佐々成政降伏。利長、二上山の守山城へ
1597 利長、富山城主となる
1598 利長、加賀藩二代藩主となり金沢へ
1600 関ヶ原の合戦。(前年に利家没)
徳川方についた利長に加越能百二十万石
前田利長公画像 1605 利長は、利常に三代藩主を譲り、富山城へ
1609 富山城炎上。利長、高岡城を新造して移る。城下町を造るために各地から、商人や職人を呼び集め、特権を与えるなどして発展に尽くした。鋳物師は1611年に招かれた。
1614 利長没。大坂冬の陣
1615 大坂夏の陣。一国一城令により高岡城廃城
1620 利常、高岡町人に禁足令を出す。
高岡の町を離れることを禁じて、利長の遺志を継いで手厚い保護のもとに商工の町へと発展させた。
1645 利常、瑞龍寺の建立開始。利長墓所建立開始。
高岡古城公園(池の端濠) 1646 利長の三十三回忌を繁久寺で行う。

※画像―高岡市のパンフレットより



ここだけの話

利常は一国一城令によって廃城となった後も濠割をそのまま残し、明丸に火薬庫を温存し、蔵には武器を備えた。さらに瑞龍寺の屋根は鉄砲玉にできるように鉛の瓦でふき、利長の墓には二重の堀をめぐらせた。こうして、古城、瑞龍寺、利長廟で三大城郭を形成させた。
徳川が豊臣と親交厚かった前田家を警戒していたため、前田家の方でも万が一に備えていたと考えられる。



なでしこの部屋

金屋の壊し方

私が子供の頃、弟は買ってもらったばかりのおもちゃを、よく壊しました。すると大人達は、「また壊したがけ、やっぱ金屋の壊し方やね」と、あきれたような、でもどこか嬉しそうに言いました。
金屋町は火を扱う仕事が多いので、町で火消しの集団を結成していたそうです。その働きはたいそう勇敢なものだったのでしょう。「金屋の壊し方」として、語り継がれているのですから。ところで私は、壊し方とは「物をすぐ壊してしまうほど短期な人」という意味かと思っていました。