24号 | 発行 2001.12月 |
「前田利長、利常まちづくりフォーラム」
二部
演題 「利長のまちづくり」 高岡を選んだ理由
侍屋敷 集まった人々が作った順につけた町名 旧城下町から移った人々の町 職種により集まって住んだ町 地名、地形、位置等でついた名前
・随所に枡形、馬出を設ける |
演題 「利常のまちづくり」 利長の死後、一国一城令のため廃城となり城下町の機能は失われた。三代藩主利常がこれを商工都市へと蘇らせた。(米、麻布の集散地、魚問屋、塩問屋の創設など) 略歴 1601年 徳川秀忠の次女、珠と結婚 1605年 加賀三代藩主となる 1614〜大坂冬の陣、夏の陣に徳川方で活躍 1620年 高岡町人に転出禁止令を出す 1639年 長男光高四代藩主。小松城で隠居 次男利次富山藩主。三男利治大聖寺藩主 1645年 光高急死。3歳の綱紀が五代藩主となる。綱紀を後見。瑞龍寺の建立開始 1658年 綱紀結婚。10月利常没 66歳 利常に謀反の疑いありと噂が流れた時、江戸城でアホウのふりをして危機を乗り越えた話がある。また、高岡を防御の要とするべく古城の濠を残し、壮大な利長の墓を建て、鉛瓦(鉄砲の弾になる)の瑞龍寺を構築した。その他様々の事績を残し、藩政の土台を固めた。 |
なでしこの部屋 講演を聞いて 講師の樽谷さんは代々魚屋だそうです。この商売を続けてこれたのは前田利常のおかげだとおっしゃいました。越中で高岡の商人だけが魚を扱える特権を与えられていたそうです。魚のほかには綿、材木などがあったそうで、利常が高岡を商工の町にしようと努めたことがわかりました。わが金屋町の鋳物業も利常の恩恵にあずかってきました。こうしてみると、高岡の産業のほとんどがこの時代を出発点として、様々に変化しながら今日に続いてきているように思えます。 困難なときも先人に学べば、秘策が見つかるかもしれません。たとえ具体的な策が見つからなくても、誇りをもって精力的に生きる姿に何か得るものがあるような気がします。 |