18号 発行 2001.6月

「高岡金屋とその周辺金屋」 ―高岡市立博物館企画展よりー

高岡金屋の歴史  ―河内丹南郡狭山郷(大阪府)の勅許鋳物師の流れをくむ―
鰐口:金屋町の鋳物史料館蔵 元禄9年金屋町で鋳造され、町民が有磯神社に寄進したもの
近世初頭 越中砺波郡西保金屋村(現・高岡市丹西部金屋)で鋳物業を営む。
1611年 高岡開町のおり、加賀二代藩主前田利長公に招れ、7人が移った。千保川左岸に鋳物場と屋敷を与えられ、以後、藩の手厚い保護のもと栄ていく。
江戸中期 北国筋鋳物師の頭役となり、領内鋳物業の一代拠点となる。
明治期

新政府の殖産興業振興策も相俟って、さらに発展、昭和50年「伝統的工芸品」として国より産地指定をうける。


現存する在銘の高岡鋳物のうち最古の鋳造品は案居寺の鰐口(福野町・案居寺蔵


西保金屋 ―元禄時代頃から西部金屋に改称―(現:高岡市戸出西部金屋)

朝廷より保障された「仁安の御綸旨」を携え、河内から移住し、南北朝時代はすでに創業。庄川の舟運は原材料や製品を運び、鋳型には庄川の川砂が使用できる最適の地域であった。高岡金屋に押され、明治中頃には転職、廃業

 

中居(能登穴水町)
中居鋳物の起源は不明である(能登釜の名は、平安末期、鎌倉時代の文献にあるが、その産地は不明)。中居鋳物の在銘初見は、応永3年(1396)に造られた懸仏。中居鋳物師と真継家の結びつきは早く、鋳物師許可状等、種々の旧書や号を手に入れ、菊御紋を使用できることを誇った。
 加賀藩からも重視され、塩釜鋳造及び貸し釜も保護を受け繁栄した。しかし、熱効率が良く、製塩に適した浅釜の高岡釜が安価に貸し付けられ中居釜は衰退した。大正13年(1924)に廃絶。

仲居の塩釜は口縁部がふくらみ、底の深いずんぐりしたものだった。


その他県内の金屋 
―これらの多くは、明治中期ごろまでに鋳物業から離れ、その痕跡をとどめていない―

前沢・荻生金屋(黒部市内)、放生津金屋(新湊市)、富崎金屋(婦中)、富山金屋(富山市)東金屋(滑川市)、高宮金屋(福光町)、福野金屋(福野町)


なでしこの部屋

衣替えの頃

 6月1日は衣替えですが、高校生の娘は5月の末からもう白いセーラー服を着ています。ちかごろの学校は、1週間ほどは暑さに応じてどちらを着るか、個々の判断にませているようです。
 私が学生のころは暑くてもがまんしていて、6月1日に夏服に替わると、急に町が明るくなったような気がしたものです。そして、祖父がそろそろ夏の準備を始めるのでした。襖や障子戸を取り外して、蔵から出してきた簾戸をいれます。籐の敷物をしいて、座卓のテーブルクロスもレースに替えます。床の間の掛け軸も涼を感じるものをかけました。簾戸の隙間を通って入ってきた空気はどこかすがすがしかったように思います。
 ところが簾戸の部屋にクーラーは使えません。今の時代涼しい生活に慣れたお客様をお迎えするためには、クーラーは必需品です。そこで二間の間の襖をはずして、御殿簾をつり、周りの障子戸は閉めたままでクーラーをかけます。簾戸は蔵に眠ったままです。
 昔、暑い日中チリンと風鈴が小さな音をたてただけで涼しさを感じたのに、あの感性はどこへいってしまったのでしょう。