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利長と金屋町 | |||
年 代 | 西暦 | 事 項 | |
永禄 | 5年 | 1562 | 前田利長、尾張国荒子で生まれる。幼名犬千代 |
天正 | 3年 | 1575 | 前田利家、信長より越前府中(武生)に封ぜられる |
天正 | 9年 | 1581 | 前田利家、信長より能登に封ぜられる。利長、父利家の前封府中三万三千石に封ぜられる。利長、信長の五女永姫(玉泉院)と結婚 |
天正 | 10年 | 1582 | 織田信長、明智光秀の謀反に遭い、本能寺で急逝。 前田利家、七尾城に入城 |
天正 | 11年 | 1583 | 柴田勝家、秀吉と戦うため近江に出兵、利長この先鋒となる。 柴田勢敗れ、利長、父利家と共に府中に戻る。秀吉と和睦成立。利長、秀吉に従って加賀に入る。秀吉、利長の封府中を除き、石川郡松任4万石に封ず。利家は能登国及び北加賀二郡を与えられ尾山(後の金沢)に居城 |
天正 | 12年 | 1584 | 秀吉、佐々成政の末森城を攻撃、利家、利長共に赴援す |
天正 | 13年 | 1585 | 秀吉、越中を攻略、利長これに従軍する |
天正 | 14年 | 1586 | 秀吉、利長に成政の旧領砺波、射水、婦負3郡を与う。利長、守山城(高岡市)に入る。利長、慶長2年まで13年間守山城を居城とする |
天正 | 15年 | 1587 | 利長、九州の役に遠征。豊前岩石城を攻撃、凱旋 |
天正 | 16年 | 1588 | 利長、後陽成天皇の聚楽第行幸に陪す |
天正 | 17年 | 1589 | 利長、関東の役に遠征。父利家と共に出陣、八王子城を攻撃、さらに小田原城を攻略 |
文禄 | 2年 | 1593 | 前田利常金沢城で生まれる。幼名猿千代。のち守山城に移る |
慶長 | 2年 | 1597 | 利長、守山城を去り、富山城に移る |
慶長 | 3年 | 1598 | 利長、越中の砺波、婦負、新川の3郡および氷見庄を除く射水郡、能登の鳳至、珠洲の2郡を領有し、従三位権中納言に任ぜられる 豊臣秀吉、大阪城にて死去 |
慶長 | 4年 | 1599 | 前田利家、死去 |
慶長 | 5年 | 1600 | 利長の母、芳春院人質として江戸下向。 7月関ヶ原の戦いおこる。利長、大聖寺城、浅井城を攻め、小松で丹羽長重と和睦。 家康より加越能三国に120万石を与えられ、外様最大の大名となる |
慶長 | 8年 | 1603 | 徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く。諸大名の普請役で江戸城下町の建設始める。外様大名江戸に参勤する |
慶長 | 10年 | 1605 | 利長隠退。利常に家督を譲り、越中新川郡22万石を養老領として富山城に隠居する。 |
慶長 | 12年 | 1607 | 利長安居寺に鐘を寄進する |
慶長 | 14年 | 1609 | 鼬川上流にて出火、富山城火災に遭う。利長魚津城に避難。家康に火災を通報。家康、越中国内好む所に築城することを許可す 利長関野ヶ原に急拠築城し、五ヶ月間でほぼ大要出来あがる。高山右近築城を担当。利長9月13日入城す。関野ヶ原を高岡と命名して城下町の建設を進める |
慶長 | 15年 | 1610 | 利長、西部金屋鋳物師に高岡へ引越しを薦め、屋敷の事など心配することを記した書簡を送る |
慶長 | 15年〜 16年頃 |
安川乾清、後藤清重、利長に召されて高岡城内に居り、金工の名手として名声最も高し。乾清は高岡彫金の開祖で子々孫々高岡において彫金に従事し、清重は利長歿し、廃城となった後、金沢に移り、加賀後藤家の開祖となる | |
慶長 | 16年 | 1611 | 砺波郡西部金屋(高岡市戸出西部金屋)の鋳物師7人を諸役免除の拝領地(高岡金屋町)に移住す。 肥前守利長公の意向を受け、横地兵部が検討。各役人協議の結果、居住地面拝領す。ただし、西部金屋より鴨嶋の領へ引越していたところ、見分の上、横田領川の手に決まり、7人の鋳物師が移住した。金森弥右衛門、喜多彦左衛門、藤田与茂、金森与兵衛、金森藤右衛門、般若助右衛門、金森九郎兵衛の7人 |
慶長 | 17年 | 1612 | 7人のものより、大工源右衛門を引寄せたきことを申請していたが認可され、鋳もし藤田源右衛門が高岡に引き移った。 |
慶長 | 18年 | 1613 | 7人のものよりさらに追加3人申請していたところが認可となり、金森與作、藤田与助、金森九郎右衛門の3人が引き移った。 |
慶長 | 19年 | 1614 | 利長、高岡城で歿す |
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引用文献 「高岡銅器史」 |
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