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明治時代・大正時代 | |||
年 代 | 西暦 | 事 項 | |
明治 | 2年 | 1869 | 角羽勘左衛門、藩と協同して横浜に銅器売捌所を設立 |
明治 | 5年 | 1872 | 金森宗七、御馬出町に大工場建て優秀な職人を招き意匠図案の工夫、技術の改良図る |
明治 | 6年 | 1873 | 宗七ウィーン万国博に出品受賞 |
明治 | 9年 | 1876 | 金屋町富田宗左衛門、有礒神社へ拝殿円型鉄製氷鉢を奉納 |
明治 | 11年 | 1878 | 宗七、パリー万国博に出品受賞又京都府博覧会はじめ各地の共進会等で受賞を重ね特産品としての高岡銅器の名声を確立 |
明治 | 13年 | 1880 | 十三代喜多万右衛門、吉野仁左衛門、藤田治三郎、金森与四平ら金沢兼六園に「日本武尊」の銅像を鋳造 |
明治 | 14年 | 1881 | 有礒神社に日本武尊の分霊(兼六園銅像の原型)を祀る |
明治 | 16年 | 1883 | 横田古町の鋳物師、有礒神社本殿に鉄製鬼瓦を奉納 |
明治 | 23年 | 1890 | 高岡鋳物師組合創立 |
明治 | 26年 | 1893 | 富山県工芸品陳列場が高岡に開設 |
明治 | 27年 | 1894 | 鋳物工場に動力が使われだす 富山県立工芸学校を高岡に創立、銅器関係では、金属彫刻科、鋳銅科が設置される |
明治 | 28年 | 1895 | 黒鉛ルツボが出来、熔解作業が容易になり鋳物業者急増 この頃から県工芸学校、石膏型、焼型、中型用瓦斯抜菅、松木焼成法、ホーロー鉄器など銅器生産技術の研究普及を進める |
明治 | 34年 | 1901 | 高岡金工会設立され青年層の研究意欲高まる |
明治 | 35年 | 1902 | 十三代喜多万右衛門、再生鋳物に成功 高岡工芸学校に工業補習学校新設(夜間) |
明治 | 36年 | 1903 | 鋳物工場に新式熔解炉、扇風器蒸汽機関などが据付けられる |
明治 | 37年 | 1904 | 輸出機運が盛り上がり高岡銅器組合結成 |
明治 | 38年 | 1905 | 銅像、銅碑等大作の鋳造盛んになる |
明治 | 40年 | 1907 | 十三代喜多万右衛門、氷見朝日山公園の「神武天皇像」を鋳造 |
明治 | 42年 | 1909 | この頃、高岡銅器界は製造業者約400戸、職工約1,800名、問屋約70軒で、問屋制家内工業体制が成立、製造業は鋳造、研磨、彫刻、打物、着色業に分業した |
明治 | 43年 | 1910 | 金森辰次郎、御印祭用の御神鏡を鋳造 高岡銅器界日英博に7名の大量入賞を果す |
大正 | 2年 | 1913 | 富山県工業試験場設立 |
大正 | 3年 | 1914 | 第一次世界大戦の影響を受け、高岡銅器生産不振 |
大正 | 4年 | 1915 | 高岡の鋳物工場で銑鉄のインゴットを製造、大正7年にかけて600万近い生産を挙げた |
大正 | 7年 | 1918 | 嶋安次郎朝鮮土による生型鋳造創始、従来の焼型に対し製造工程を一挙に簡易化し量産が可能となる |
大正 | 11年 | 1922 | この頃、機械応用による仕上げ、板金等の生産盛ん、また生型による一貫鋳造作業が行われ片岡友吉五具足製作に応用 |
大正 | 12年 | 1923 | 関東大震災 |
大正 | 14年 | 1925 | 高岡鋳造組合結成、大正天皇御大婚25年奉祝に高岡市より銅器のインクスタンド献上 |
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引用文献 「高岡史料」 「高岡市史」 「鋳物師」 「高岡鋳物史話」 「高岡金属工業史」 「富山県郷土史年表」 「喜多家文書」 「高岡の特産師 「御印地年表」 「明治、大正、昭和高岡銅鉄器沿革史」 金屋町古老の話 富山県鋳物工業協同組合の史料 「高岡銅器史」 |
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