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高岡金屋とその周辺金屋
我が金屋町の近辺にいくつもの金屋地名が残っています。
それら地域には鋳物師たちの鋳物場であったことが
近世期に全国の鋳物師を統括していた京都の真継家(まつぎけ)文章に記されています。
しかし、これら多くは、明治中期ごろに途絶えその痕跡すらありません。 地名をクリック

.........................................................................................................................資料参考:高岡市博物館資料より

周辺の金屋


高岡金屋(高岡市金屋町)            古図Mapへ戻る

 加賀藩二代藩主前田利長は、慶長14年(1609)高岡城に入城し、
開町まもない同16年(1611)、河内丹南の鋳物師の流れをくむ 
砺波郡西保金屋の有力な鋳物師7名(金森 弥右衛門・喜多 彦左衛門・藤田 与茂・
金森 与兵衛・金森 藤右衛門・般若 助右衛門・金森 九郎兵衛)を高岡に招いた。
千保川左岸に幅50軒、長さ100間の宅地を与え5ヶ所に鋳物工場を開き、
諸役を免除し手厚い保護のもとに鋳物産業の奨励を行った。

これが高岡金屋の始まりで、最初は町立にて必要な鍋、釜、鉄瓶、五徳、農耕具など
鉄鋳物造りであった。しかし数年で利長は没しさらに一国一城の令により高岡は廃城となり
急速にさびれるが、三代藩主利常は、利長同様鋳物師の特権を認め、
加賀藩領における商工業の町として高岡を再興させた。
一時期減少した鋳物製品の需要も次第に回復し、江戸時代中頃(宝暦。明和年間)には、
町人経済力の向上と、真宗教団のひろがりにより、仏具等の銅製品の鋳造も始まり、
高岡金屋は真継家(まつぎけ)より北国筋鋳物師(越前・加賀・越中・越後辺り)の頭役に任命され
急速に力を増していった。

そして幕末から明治にかけて、高岡銅器商人達は、廃藩によって失業した旧加賀藩や旧富山藩の
名工といわれた彫金師達を吸収し、高岡銅器の技術向上を計り、各国の万国博覧会での受賞や
貿易により、世界的販路を確保していった。また明治新政府の殖産興業の振興策も相まって
明治10年代後半の不況による銅器業界の低迷にも打ち勝ち、
以後の高岡銅器産業の礎を築きあげた。

                              


西保金屋(にしほかなや)(高岡市)       古図Mapへ戻る

 西保金屋(現高岡市西部金屋)における鋳物業の創始は不明であるが、
伝世された資料から推測すると、中世期(南北朝時代)にはすでに操業がなされていたようである。
 わが国における鋳物の発祥は、平安初期の河内(かわち)国丹南郡(たんなんぐん)
狭山郷日置庄(ひきのしょう)(現東大阪市)と云われている。
平安後期の農耕の発達により鋤、鍬などの農具の必要が生まれ、
河内の鋳物師達の諸国への移動が始まった。

西保金屋の鋳物師達も諸国交通の自由や鋳物の原材料採取の権利など、朝廷より保障された
「仁安の五輪旨(にんあんのごりんじ)」を携え、河内から移住してきた一群の人々である。
元禄元年(1184)に越前に移り、数年後の建久年間(1190〜99)には加賀国倶梨伽羅へ転じ、
次いで 砺波郡落合開発を経て西保金屋に移住している。

西保金屋は、庄川左岸の小丘陵地帯で洪水の災害もなく、庄川の舟運は原材料(能登の鉄や薪)や
製品を運び、鋳型には庄川の川砂が使用できる、鋳物生産には最適の地域であった。
近世初頭、高岡創町に伴い、加賀藩二代藩主前田年長の招きにより7名の(のち、さらに4名が移る)
有力な鋳物師が高岡金屋へ移るが、11名の西保金屋の鋳物師達は従来通り社寺の鐘や
公儀御用の鉄砲や大釜などの鋳造に励んだ。

江戸中期には、真宗教の拡がりに伴い仏具等の需要が増大するが、北国筋鋳物業の頭役となった
高岡金屋に押され、販売も減少。物資の運搬も舟運の水路に替わり鉄道などの陸路が主流となり、
明治中頃には次第に転職、廃業へと追い込まれていった。
 現在では農村地帯となり、鋳物場の姿はとどめていないが、鋳物師の後裔の林家には数点の
古文書や梵鐘竜頭の木型(高岡市指定文化財)などが伝えられている。
 また地域名の西保金屋は、元禄時代頃から 西部金屋に改称されたようである。


前沢・荻生(おぎゅう)金屋(黒部市)        古図Mapへ戻る

 越中金屋のなかでも、現在の黒部市内にある前沢・荻生金屋は、伝世された梵鐘の在銘などから
県内最古の鋳物場であると考えられる。
 前沢金屋の古い鐘は、今は現存しないが、記録によると応永34年(1427)鋳造の会津若松城の
時鐘が、以前魚津市小川寺の千光寺にあったもので前沢金屋製であったという。
新潟県糸魚川市新鉄町の経王寺(きょうおうじ)の梵鐘(新潟県指定文化財)には、永享4年(1432)
越中国前沢金屋大工銘が陰刻されている。
また荻生金屋の遺品は、
新湊市三日曽根の専念寺に文明6年(1474)の鋳造銘の梵鐘が現存している。


放生津(ほうじょうず)金屋(新湊市)       古図Mapへ戻る

 放生津金屋(現新湊市)は、庄川が富山湾にそそぐ最下流の東岸に位置し、河口の放生津潟
から流れる内川があり、中世期には、越中物資の流通拠点として開け、越中守護所も置かれていた。
 この地域にいつ頃から鋳物師がいたのか不明であるが、永正3年(1506)に
大工放生津源才(氏)誠吉が製作した梵鐘が、越中国都波郡般若庄地頭方東保郷(現砺波市)の
常福寺毘沙門(びしゃもん)堂にあったと大門町の十村の折橋家文書「諸旧留帳」に
書き留められている。
 またそれより後年では、飛騨の高山市郊外の荒城神社の鐘の銘に、
放生津上釜屋大工藤原朝臣誠家の名と永禄5年(1562)の年代があったといわれ、
越中の材木商が寄進したものと伝わっていたが、明治14年(1881)廃仏毀釈により消滅している。


富崎金屋(婦中町)                   古図Mapへ戻る

 婦中の富崎には、昔から、鋳物師がいたと云われてているが、伝世された資料が少なく、
繊細は不明である。
 京都の真継家に伝わる記録によれば、元和年間(1615〜24)の「覚帳」の中に
二人の富崎鋳物師の名前があり、天福年間(1233〜34)頃に朝廷より出された「御綸旨」
を受けていたことが記されている。そのほか「治工休職人員帳」の記述から推すに、富崎鋳物師は
文化年間から文政年間頃(1804〜1830)には廃業したようである。
 今日、富崎村には、「猫足の茶釜」と称される農家の囲炉裏で用いられた釜が2点と、
富崎八阪神社境内に「鋳物師宮」または「鍋屋神」といわれている小祠があり、かつてそこに
御綸旨が納められていた正徳4年(1714)の年紀のある木箱が保有されていたようであるが、
現在は確認することが出来ない。


富山金屋(富山市)                    古図Mapへ戻る

 富山金屋のあった所は、現在の辰巳町から室町通り(上金屋)及び柳町(下金屋)辺りで、
昭和40年(1965)の町名の整理、統合によって金屋名は残っていない。
しかし、富山上金屋の鋳物師山本性の銘を残す滑川市専長寺の鐘(宝永2年・1705)を始めとして、
立山雄山神社の湯立大釜(享保年間・1716〜36)などに山本銘をたどることができる。

 また、富山下金屋の鋳物師河辺系の銘が、
高岡市伏木勝興寺の梵鐘(元和3年・1617)を始めとして、
氷見市朝日本町蓮乗寺梵鐘(寛永16年・1639)(氷見市指定文化財)や
冨山市新保の東源寺金銅阿弥陀如来像(天保12年・1841)などに見られる。
 これらの梵鐘や仏具を造った富山金屋の成立は、慶長期前田利長隠居後で、富山城に入城する
前後の町立ての頃と思われるが、この頃はまだ上金屋、下金屋の区別ははっきりしていなかったと
思われる。
 上金屋町は鼬(いたち)川中流の左岸(城下町側)、下金屋は鼬川下流の右岸(城下町の対岸)に
あったことが、江戸後期の古絵図から知られる。
また真継家文書「慶応二年御許書裏印請書控」(1866)によると上金屋鋳物師は
永禄12年(1569)に免許状を受けており、
下金屋鋳物師は慶長17年(1612)に免許状を交付されたことになっている。
 「町吟味所御触留」の記録によると、江戸中期には高岡鋳物師の釣り鐘や喚鐘、鍋、釜や
農具製品が広く出まわるようになり、富山鋳物師の活躍が次第に停滞したため、
富山藩は宝暦8年(1758)、藩内の鋳物は富山鋳物師に注文すること、又富山鋳物師に製品を入念
に作るよう申し渡し手いる。


東金屋(滑川市)                      古図Mapへ戻る

 滑川の金屋村(現在の滑川市東金屋辺り)における鋳物業の形跡は、鎌倉時代の建暦3年(1213)
鋳物師の諸役免除を願った文章が東寺に伝わる古文書の中に残されている。
次いで、時代は下がるが、江戸中期の元禄15年(1702)、
加賀藩5代藩主綱紀が各十村役に村々の由緒を上申させた「郷村名義抄」があり、
その中に「この村領に往古鋳物師罷有り候に付村名を金屋村と申し伝え候」とこの地にも
鋳物場のあった事を上申している。
 また文化4年(1807)には、滑川の小出屋嘉助が常願寺川から浜黒崎一帯の砂鉄を採集して
製鉄を始めており、今日でも鉱滓の出土が確認され、
東金屋たたら製鉄場跡(滑川市東金屋字角地477−3)として滑川市指定文化財(史跡)となっている。
 その他、文化6年(1809)新川郡奉行、千秋次郎吉より加賀藩家老村井又兵衛宛の報告書に
「新川御郡東岩瀬辺ヨリ滑川海辺迄之浜砂を以鉄ニ吹立候趣書上申候」とあり、
さらに同8年(1811)「鉄山の覚書」と題して、たたら製鉄に関する概説書が藩に提出されている。
 その後、いつごろまで操業されていたのかは不明で、鋳造品も伝世されていない。


高宮金屋(福光町)                     古図Mapへ戻る

 越中の砺波郡内で金屋といわれた所は、戸出町(高岡市)の西保金屋をはじめ、東山見村(庄川)の
山見金屋(山斐郷)と若林村(小矢部市)の金屋本郷、福光町の高宮金屋があるが、
これらの地における鋳物師の活動を示す製品はほとんど残っていない。高宮金屋に関する資料は、
高岡の釜本文書に初見があり、「西部金屋(西保金屋)、本郷金屋とともに今後は
百姓並みに課税する」という申し渡し状(元和3年・1617)が下されている。
 そのほか、福光町の随順寺に伝わる子文書に、元禄16年(1703)高宮金屋で梵鐘を
鋳造した記述があり、また高宮の村上家と稲村家に高宮製と伝わっている湯釜も残されている。



福野(福野町)                       古図Mapへ戻る

 福野に鋳物師がいたのは、「真継家文書」や「砺波郡福野村鋳物師藤吉始終書之写」、
高岡金屋の「鋳物師要録記」などから江戸時代の中頃からであると考えられる。
 周辺金屋の鋳物師と、地域闘争や吹場新設を巡る係争の末、獲得した鋳造の権利も、
なぜか短期間の間に放棄し、転職・廃業の道を辿ったようである。
 福野で最初に真継家より鋳物師許状を受けたのは桐木村の源兵衛で、同じ頃と考えられる
正徳4年(1714)に藤吉も鋳物師許状を得ている。しかし、先進地の高岡鋳物師の反対にあい、
両者の抗争は長く続いた。藤吉が鋳物師の勅許を得、真継家から吹屋を始める許可を受けたのちも、
高岡鋳物師は北国筋鋳物師頭役の権限により藤吉の開業に反対したため、
真継家より高岡鋳物師の北国筋頭役を差し除く旨を通知された。これにより長年の紛争も終わり、
願い出てから足掛け4年の後ようやく営業を始めている。
 今日、伝世されている福野金屋の鋳造品は城端町善徳寺の梵鐘のみで、その鐘銘には、
「宝暦九年鋳物師越中国福野住長井和泉少掾藤原信成(藤吉の名)」(1759)の陽鋳文字が
記されている。


中居(穴水町)                      古図Mapへ戻る
  中居(石川県穴水町)

中居鋳物の起源は不明である。能登釜の名は、
平安末期や鎌倉時代の文献に現れるが,その産地は明らかではない。
中居鋳物の在銘初見は、応永3年(1396)に作られた懸仏で、
大正13年(1924)に廃絶に追い込まれるまで数多くの鋳物製品が
造られた。今に残る中居鋳物の名作としては、
室町後期の越後白山神社鐘・飛騨千光寺鐘(岐阜県指定文化財)のほか、能登羽咋本念寺鐘もまた代表作である。
また、近世前期の那谷寺三重塔、妙成寺五重塔の屋根最上部の
相輪(そうりん)は当時加賀藩随一であった中居鋳物の秀作である。
 中居鋳物師と全国の鋳物師の統轄者であった公家の真継家との
結びつきは早く、真継家よい鋳物師許状、河内国を出身とする由緒、
筋目の旧書や、河内守・出羽守などの国守号・藤原呼名状らを手に入れ、菊御紋を使用できることを誇った。
加賀藩の統治下では中居鋳物師の40軒が数えられた。

 加賀藩代々の藩主から中居鋳物は重視され、二の丸御用の鍋釜・唐金灯籠・時鐘等・時に
は鉄砲・大砲など軍品も納入している。寛永年間(1624〜44)に、塩の専売制が取ら
れると塩釜鋳造及び貸し釜も藩の保護を受け中居鋳物は繁栄した。
しかし、宝暦年間(1751〜64)から高岡釜が能登一円に安価に貸し付けられるようになり、
中居鋳物は衰退した。
さらに高岡鋳物は、熱効率が良く製塩に適した浅釜を売り出したため、中居鋳物はます
ます打撃を受けた。
 また、寛政8年(1796)には鹿島郡佐味村(現七尾市)龍光寺の梵鐘を高岡鋳物師が
鋳造。中居鋳物師はこの停止を求めて真継家に訴え、争論が起こった記録もある。このよう
な高岡鋳物の進出に加え、金沢鋳物の能登進出も相まって、幕藩体制の崩壊とともに鋳造業
は衰退し、鋳物師の一部は高岡金屋へ吸収され、やがて大正期に廃業している。

参考:高岡市博物館資料より

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