千保川   マイホームタウン 新保HOUSE 


 
 金屋町の縁を流れている千保川という川はつなぎ川です。上流は庄川に連なり、下流は小矢部川に合流します。しかし、かつては、千保川は庄川の本流で川幅もはるかに広くかったという。

 橋番町は、千保川の東岸で、中島町・鴨島町は文字通り島であり、梶原町は称念寺裏で深い淵をなしていたので梶原淵町と呼ばれ、漫々たる水をたたえて木町で小矢部川に合流した。

 古図を見ると、小矢部川と千保川が同じ幅に描かれてあり、伏木浦に着いた渡海船はそのままさかのぼって、千保川に入ることができた。

 千保川は城下町高岡の大動脈ともいうべき重要水路であったが、洪水の災いも甚大で、藩初以来、水にはいたく悩まされた。寛文9年(あるいは10年)の大洪水に、庄川の水勢が庄川に転じたのを機として抜本的対策を立て、野尻・中村・千保の三川を堰き止めて、全水量を庄川に落とす大工事に着手した。
 青島弁財天前大堤防がこれであって、45年後の正徳4年(1714)に竣功し、それ以来、今の庄川が主流となって、千保川は、水量も減り川幅もずっと狭くなった。
 今までは、本流であり大河であって海洋を走る大船もかなり奥までさかのぼってきたが、この工事によって千保川は洪水は無くなったが大船の運行は無理になった。
 利長在城時代の七浦として、木町・伏木・氷見・六渡寺・放生津・海老江・灘浦として、海港でもない木町が筆頭にあげられている程、大船がたくさん入って繁昌していた。
 木町は、材木商の町、建設資材輸入のため、富山守山の木町から呼び寄せてできた町である。
 廃城後も渡海船の発着場として高岡町の大玄関であった。
 魚屋や小荷物を積んだ川船は、さらに遡って町の中に漕ぎ入れ、河原町・博労町にも舟着場が設けられといわれる。
「元禄時代の木町 長舟287艘と称す」
というように、多数の舟をもって水運による物資の運搬がなお盛大であった。
 鋳物の主要原材料は、鉄・銅・砂・木炭である。鉄は主として石見(島根)・伯耆(鳥取)から、銅は主として飛騨(岐阜)・越前(福井)から仕入れ、鋳物砂は射水郡 宮村(高岡)で採掘、木炭は新川郡。越後(新潟)・能登(石川)産のものを買い取っていた。これ等の鋳物用原材料は、伏木浦に集積され、長舟で千保川をさかのぼり金屋町へ直送された。
 木町は千保川。小矢部川筋を上下する長舟の支配権を持っていたが、鋳物用原材料に対しては送り状を確認するだけで、木町の長舟に積み替えさせられたり、口銭(検査手数料)を徴収させられることはなかった。
 これ等の荷物を陸揚げし、鰊釜や塩釜等を舟積みするため、内免橋から横田橋にかけて幾つもの波止場があった。
 しかし、慶長16年から明暦・万治・寛文あたりまでの50〜60年間とそれ以後藩政時代の終わりまでの200年間とでは、工業地帯金屋町の産業立地条件やや交通運輸関係は大きな革命があったものと見るべきではなかろうか。

庄川(雄神川)
 飛騨に源を発し、深い渓谷をなして五ヶ山地を横断し、青島頂点とし北方に一大複合扇状地と三角州を造ったのが、砺波・射水の平野であって、川は洪水の度に右に左に流路を変た。
 大伴家持が越中の山河を賛え万葉を飾った頃は、石動か福岡付近で小矢部川に合流したと考えらている。
 その後しばしば移動したので、庄川の前身と推測される川は幾つもあるが、千保川はその中の最も新しい一つである。
 伝えによれば、今の庄川ができたのは応永13年(1404)の大洪水の際で、その後天正13年(1585)の大地震に水路が変動して、かつての本流たる千保川の方が再び水量も川幅も大きくなったという。 
参考文献:高岡市史、高岡市料


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