前田利長公   マイホームタウン 新保HOUSE 


                                             
1562 尾張国荒子で誕生
犬千代→孫四郎→利勝→利長
1581
(天正9年8月)
父利家の前府府中3万3千石を与えられた
信長の5女永姫(玉泉院)と結婚
利長20歳 永姫8歳
翌年信長死去
1583
(天正11年2月)
柴田勝家、秀吉と戦うため近江に出兵
利長この先鋒となる
1583
(天正11年4月)
柴田勢敗れ利長父利家と共に府中に戻る
秀吉と和睦成立
利長、秀吉に従って加賀に入る
秀吉、利長の封府中を除き、石川郡松任四万石に封ず。
1584
(天正12年)
秀吉、佐々成政の末森城を攻撃
利家、利長共に赴援す
1585
(天正13年)
秀吉、越中を攻略
利長これに従軍する
1586
(天正14年)
秀吉、利長に成政の旧領、砺波・射水・婦負3郡を与う
利長、守山城に入る
慶長2年まで13年間居城する
1587
(天正15年2月)
利長、九州の役に遠征
1587
(天正15年4月)
豊前岩石城を攻撃
1587
(天正15年7月)
凱旋
1588
(天正16年)
利長、後陽成天皇の聚楽第行幸に倍す
1589
(天正17年4月)
利長、関東の役に遠征
1589
(天正17年6月)
八王子城を攻撃さらに小田原城を攻略
1593
(11月25日)
利常、金沢城で生まれる
幼名猿千代のち守山城へ移る
1597
(慶長2年10月)
利長、守山城を去り、富山城に移る
1598
(慶長3年4月)
利長、越中の砺波・婦負・新川の3郡及び氷見庄を除く射水郡
能登の鳳至・珠洲の2郡を領有し従三位権中納言に任ぜられる 
37歳
1598
(慶長3年8月)
豊臣秀吉、大阪城で死去 63歳
1599
(慶長4年3月)
利長、大阪城にて死去 63歳
1600
(慶長5年)
利長の母、芳春院人質として江戸に送られる
7月、関が原の戦いおこる
利長、大聖寺城・浅井城を攻め、小松で丹羽長と和睦
利常、人質として小松に送られる
1603
(慶長8年)
徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く
諸大名の普請役で江戸城下町の建設始める
外様大名江戸に参勤する
1605
(慶長10年6月28日)
利長隠退、新川郡22万石を隠居領とする 44歳
1607
(慶長12年)
利長、安居城に鐘を寄進する
1609
(慶長14年3月18日)
いたち川上流にて出火、富山城火災にあう
利長、魚津城に避難、家康に火災を通報
家康、越中国内好む所に築城することを許可する。
利長、関が原に急拠築城し5ヶ月間でほぼ大要出来あがる
高山右近築城を担当、利長9月13日入城す
関野ヶ原を高岡と命名して、城下町の建設を進める
1610
(慶長15年5月30日)
利長、西部金屋鋳物師に高岡への引越しを薦める
屋敷の事など心配することを記した書簡を送る
慶長15年〜16年 利長、西部金屋鋳物師に宛てて書簡を送る
1611
(慶長16年9月21日)
西部金屋鋳物師、高岡に移住する
肥前守利長公の意向を受け、横地兵部が検討
各役人協議の結果、居住地面拝領す
ただし、西部金屋より鴨島の領へ引越したところ、
見分の上、横田領川の手に決まり、7人の鋳物師が移住した
1614
(慶長19年5月20日)
利長、高岡城で死去



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