高 岡 城 | マイホームタウン 新保HOUSE |
高岡城築城 高岡城は平城です。そして、高岡城と城下町が営まれた関野ヶ原は、庄川沖積原のまん中に囲まれた洪積層の台地でした。 城地は関野ヶ原の最高部にあたるが、全体が低い台地で二の丸(現:市民会館の建っている所)が標高15.8b、本丸(現:射水神社)はそれよりわずかに高い。大仏前・御旅屋通りが13b余、定塚小学校の所が約10bで、東方から見たのでは全くの平坦地で、丘とも台地とも感じないが、西側ははっきりと段をなしている。片原町から高伏道路・守山町・木舟町・小馬出町・大坪町一帯は大体8b内外、川原町一帯は5,6bになるから、この辺から望んだ関野ヶ原は立派な段丘である。また、当時段丘の直下は、網目のような分流と沼沢郡で、絶好の防陣地を形成していた。 |
城下町高岡の成立 ※町人を各地から呼び寄せる 砺波郡木舟村の善右衛門など→木舟町 射水郡守山町の久兵衛など→守山町 信州上田の安元四郎左衛門など→当初信濃町のちに小馬出町に改名 ※職人を各地から呼び寄せる 鋳物師→砺波郡西部金屋→金屋町 指物師→新川郡大場村の庄右衛門→当初指物屋町のちに檜物屋町に改名 刀鍛冶→山城の藤原源太正邨→当初研屋町のちに利屋町に変更 畳屋→氷見庄の久津呂屋與兵衛など→畳町 |
城下町高岡の成立 慶長19年(1614)利長が逝去 元和元年〈1615)一国一城令により高岡城は廃止される 元和6年〈1620)3代藩利常、町人の他所転出を禁じる |
参考文献:高岡市史、高岡市料 |
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