金屋町の始まり | マイホームタウン 新保HOUSE |
慶長14年(1609)、加賀藩2代藩主前田利長公は高岡に居城を移し、その、2年後の慶長16年(1611)もとの北般若村西部金屋の7人の鋳物師が前田利長の招きにより移住してきたのが金屋町の始まりです。 鋳物師たちは長さ約100間、幅約50間の土地を賜り、5ヶ所の吹場(鋳造作業所)を建て、諸役(納税や労役)免除の特権を与えられた。 その頃の金屋町は水利に富み、町家とは離れており、防火上からも安全な地帯であった。 現在の千保川の川幅は約28メートルだが、利長が町つくりをした頃は千保川は庄川の本流であり、金屋町から木舟町へは、550メートルあるが、これがほぼ川幅(川原を含む)であったとも言われる。 また、北陸道は福岡町・立野・和田新町・千石町・横田町・中島町・旅籠町・通町・守山町・木舟町・小馬出町・平米町・大坪町で開発からの道と合していた等、水路・陸路ともに恵まれた土地であった。 また、翌17年、18年とさらに4人の鋳物師を呼びよせ、計11人の鋳物師により金屋町の地で鋳物業を興しました。 現在の高岡銅器の源であり、高岡のあゆみの始まりです。 以後、金屋町は高岡町奉行所に管理され、明治に入るまで拝領地と呼ばれて、次第に発展していきました。 |
参考文献:高岡の町々と屋号 |
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