利長が開き、利常が育てた高岡

高岡の町は慶長14年(1609)加賀二代藩主前田利長によって高岡城(設計・高山右近)の城下町として開かれました。利長は各地から商人や職人を呼び集め特権を与えるなど、城下の発展に尽くしましたが、5年後に亡くなります。そしてその翌年には一国一城令により高岡城は廃城となり、城下は急速に衰退しました。しかし三代藩主利常は、利長の遺志を継いで、手厚い保護のもとに高岡を商工の町へと転換し発展させました。
高岡市海側の伏木地区は、天平18年(746)に大伴家持が国守として赴任した所です。美しい自然と、人々の暮らしを歌によみ、「万葉集」にいくつか載っています。

高岡の見所

高岡古城公園 国宝高岡山瑞龍寺 高岡大仏 高岡市万葉歴史館

高岡の祭り

高岡御車山祭
重要有形無形民俗文化財
高岡七夕まつり
大小数千本の七夕が通りに立ち並ぶ
野外音楽劇
越中万葉夢幻たん
高岡万葉まつり
万葉集全20巻朗唱の会

金屋町と鋳物産業について

慶長16年(1611)、利長が河内丹南の鋳物師の流れをくむ砺波郡西部金屋の有力な鋳物師7名を招き、千保川左岸に宅地と鋳物工場を与え、鍋・鍬など生活用品を作らせたのが金屋の始まりです。諸役を免除し、手厚い保護のもと鋳物産業を奨励しました。
江戸時代中ごろには、京都の真継家より北国筋鋳物師の頭役に任命され力を増していきました。幕末から明治にかけて高岡銅器商人達は技術向上を計り、各国の万国博覧会での受賞や貿易により世界的販路を確保していきました。
近年高岡銅器は、梵鐘などの大型の製造から、花器、茶器、仏具など多くの製品を生産し、出荷額、販売額は全国一のシェアを占めています。

金屋のお祭り−御印祭り−

6月20日(旧暦5月20日)の前田利長の命日に、利長の遺徳をしのんで感謝し、高岡鋳物の繁栄を祈念するお祭りです。
19日の前夜祭では、やがえふ踊りや御印太鼓で祭りを盛り上げます。金屋緑地公園の特設ステージや、格子戸の町並みの石畳通りなど金屋町周辺で、900人前後の人が踊ります。横田の有礒正八幡宮から公民館にお招きした神様の前での、子供奉納踊りで締めくくります。
20日には公民館で神事がとりおこなわれ、夕方こどもの踊りがあります。

やがえふ踊りは、古くから歌い継がれてきた弥栄節(やがえぶし)に、昭和の初期に踊りを振付けたものです。
弥栄節は、一晩中続いた「たたら踏み」のつらい労働の中で生まれた作業歌です。たたらとは足で踏む大きなふいごのことです。鉄を溶かす火力を保つため、6人一組となって力を合わせ踏み続けたのです。その際皆の調子を合わせ、元気付けるために歌われた歌です。
先人の努力あっての金屋町です。町民は、先人の心を永く伝えようと、弥栄節保存会を結成して努力しています。

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※地図―国立高岡短期大学教授武山良三先生
※画像―高岡市観光パンフレットより